地球温暖化により台風被害が増加
東京税理士政治連盟にて講演「MMTから見る日本経済の未来」について講演いたしました
今年は、9月に台風15号が猛威をふるい房総半島に大きな被害が出ましたが、その直後の10月12日には、史上最大級の大型台風19号が伊豆半島に上陸し、関東から甲信越、東北と、東日本の大きな範囲で洪水の被害が出ました。
このような大型台風などによる豪雨災害の頻発の原因は、地球温暖化にあると言われています。20世紀後半から人類が化石燃料を大量に消費しだしたため、温室効果ガスとも言われる二酸化炭素の空気中の濃度が上昇し、それにより大気温が毎年少しずつ上昇し、日本近海の海水温も平年より高くなっています。その結果、海水から大量の水蒸気が大気中に供給され、台風が大型化し勢力を維持したまま日本を襲うようになり、また、豪雨が続いたりする様になったのだと言われています。
地球環境問題の解決には長期間を要する
地球温暖化による気候変動を食い止めるために、当初は化石燃料を使用しないクリーンなエネルギーとして、原子力発電が期待されていたのですが、福島第一原発の事故により、脱原発を叫ぶ人も増えています。
太陽光等の自然エネルギーに期待がかけられていますが、少なくともあと数十年は原子力エネルギー無しでは安定した電力供給はできません。台風被害で停電になり、冷房のない中熱帯夜を過ごされた千葉県民の方々の避難生活を見ても分かる様に、文明社会に慣れた我々には、1日たりとも電気無しでの生活などできないのです。
今直ちに原子力発電所を止めてしまえば、その分化石燃料による発電が増えますが、それ以前に、供給能力不足で電力供給の不安定化が露呈し、産業界だけでなく、私たちの生活の面においても大きな被害を受けることになります。現実的な議論が必要です。
新自由主義がインフラ整備を遅らせた
電力の安定供給のためには、供給能力の安定化とともに送電網の高度な充実が必要です。1つの送電線が倒木等により破損しても、別のルートで送れるネットワークを作っておく必要があります。また、送電線を地中化することにより、台風でも電柱が倒れない仕組みも大切です。
しかし、こうしたインフラの整備は、災害のない時代には、余計なコストと敬遠されてきました。特に電力の自由化が実施され、電力会社以外の企業との競争が激化すると発電コストを下げることばかりに視線が移りがちになります。その結果、安定した電力供給に不可欠な送電網の充実と言うインフラの整備が疎かになってきたのではないでしょうか。
これは私が常に批判し続けてきた新自由主義政策のもたらした結果ですが、大いに反省し検証しなければなりません。
八ッ場ダム(やんば)が水害から救った
自民党京都府連として菅官房長官に京都アニメーション放火事件に対する緊急要望をいたしました
こうした中、上毛新聞に以下の記事が記載されました。
〈国土交通省八ツ場ダム工事事務所は13日、台風19号による大雨で試験湛水中の八ツ場ダム(長野原町)の水位が急上昇して満水位(標高583メートル)に近づいたため、同日午後4時から放流を実施した。今月1日の試験湛水開始から3、4カ月かけて満水にする計画だった。11日午前2時に518.8メートルだった水位は、13日午後2時半には約59メートル上昇して577.5メートルになった。
「この水が流れたらどうなっていたのか」。一夜で満水近くになったダム。会員制交流サイト(SNS)では下流域での水害防止に一役買ったのでは、と話題になった。〉
八ッ場ダムは、「コンクリートから人へ」という民主党政権の目玉政策として工事が中断されたのですが、もし八ッ場ダムが無かったら下流の地域は水没し、大惨事になっていたのではないか、と多くの住民の方は思っているのです。
かつての様なインフラ不要論は、国民の間では殆ど聞かれません。むしろ、早く自分の地域のインフラを整備して欲しい、と多くの国民は思い直しているのです。
それでもインフラの整備を批判する日経新聞
ところが、依然として公共工事不要論は根深く存在しています。日経電子版は次のように報じています。
〈堤防の増強が議論になるだろうが、公共工事の安易な積み増しは慎むべきだ。台風の強大化や豪雨の頻発は地球温暖化との関連が疑われ、堤防をかさ上げしても水害を防げる保証はない。人口減少が続くなか、費用対効果の面でも疑問が多い。
西日本豪雨を受け、中央防災会議の有識者会議がまとめた報告は、行政主導の対策はハード・ソフト両面で限界があるとし、「自らの命は自ら守る意識を持つべきだ」と発想の転換を促した。〉
相変わらずの経済合理性と自己責任論に終始しているのです。勿論、インフラ整備はその時の社会の状況に応じて現実的な対応をしなければなりませんが、少なくとも日本の様な先進国で国民を見捨てる様な発想はモラルとしてもあり得ません。
こうした議論の背景には、一部の住民のためにインフラ整備を続ければ日本は本当に財政破綻してしまう、そうなれば国家が破綻し、多くの国民が迷惑をすると思い込みがある様です。しかしこれこそ、同胞意識の無い利己主義そのものです。
こうした議論が今なお絶えないのは、公共事業などによる国債の残高の増加が国家財政を破綻させる、と言う思い込みがあまりにも強いことが原因です。
今こそMMT(現代貨幣論)を学ぶべき
MMTは、「貨幣は負債と共に発生する」という事実に基づいて経済現象を再定義することにより、今まで見えていなかった現実をあぶり出しました。
貨幣の供給とは、銀行が与信してお金を貸すことです。これは、日銀も認めている事実です。借入金(負債)を背負う代わりに預金(資産)が手に入るのです。逆に借入金(負債)を返済すれば預金(資産)は減少するのです。したがって預金の量は借入金の量に比例します。借入金が増える度に預金は増えるのです。
銀行は無から信用供与することにより、返済不能にならない限り無限に貸し出すことができるのです。銀行与信の限界は、返済不能な額まで貸し出せばそれが不良債権となり、銀行自体が破綻する恐れがあることです。
一方で、政府の国債発行による財政出動も、政府が国債(負債)を持つことにより国民にその対価として預金(資産)を与えるものです。これも日銀が認めている事実です。実はこれが、政府による通貨発行そのものなのです。政府に通貨発行権があるということを多くの国民は知っていますが、それが具体的に何を意味するかは殆どの人が理解していません。
政府の通貨発行権行使とは、政府が国債(負債)を持つことにより国民側に預金(資産)を与えることなのです。銀行の与信行為と本質的に同じことなのです。
信用創造の無理解が新自由主義を蔓延させた
西田昌司 経世済民塾『ガルーダベース』を発足していただきました
銀行からの借入金は返済するには返済原資としての預金が必要です。事業が失敗すれば預金を回収出来ず銀行に返済できません。これが不良債権です。銀行はそうした事態にならない様に慎重に審査しなければなりません。またそういう事態に陥らない様に、借り入れをする側もデフレのような景気の悪い状態では借り入れをしません。
ところが政府は、国債を返済する時も国債の借り換えで済ますことができ、返済のための通貨を回収する必要がありません。つまり政府は支払い不能に陥ることが無いと言うことです。このことは財務省も認めている事実です。つまり、政府は国債の返済ができずに財政破綻になると言う事は理屈の上でも現実にも有り得ないのです。
ところがこの30年、民間と政府の信用創造の仕組みの違いを全く理解せずに、バブル後のリストラをしている民間にならって、政府も負債を減らすべきだと言う財政再建論があまりにも幅を利かしてしまったのです。これが、新自由主義が跋扈した根本原因で有り、それが日本を構造的デフレ社会にしてしまったのです。
税金は必要、国債発行はインフレ率で調整
MMTは、政府が財政破綻になる事は無いと主張していますが、無限に国債を発行できるとは言っていません。国債発行により国民側に通貨供給をすれば、基本的にはインフレになります。そのインフレ率が高くなり過ぎない様にコントロールすべきだと言っているのです。何%のインフレ率が良いかはその国の状況によるでしょう。かつての日本は高度経済成長の時代には2桁近いインフレ率がありました。しかし今の日本のように成熟した国にはそんな高いインフレ率は必要ありません。3〜4%で十分です。
また、MMTが正しいのなら、税金無しでも国債発行だけで予算が賄えるではないかと言うのも暴論です。税金をなくしたら国家は国債発行で通貨供給はできても回収ができず、インフレをコントロールできません。インフレのコントロールのために税金は必要なのです。また税金がなければ、国民側の資産格差に歯止めがかからず社会が不安定になります。社会の安定のためにも税金は必要なのです。
戦後のハイパーインフレは事実誤認
MMTを理解していない人は、「インフレ率はコントロールできない」「通貨の信認を失ったら戦後の日本の様なハイパーインフレが起きる」と言います。しかし、これは事実誤認です。
そもそも日本はデフレで困っています。2%のインフレ目標でさえ日銀の金融緩和だけでは達成できていません。今こそ財政出動が必要なのです。昭和30年代には2桁近いインフレ率またそれに近い利子率だったのを現在のような低金利にしたのは、政府と日銀の財政金融政策だったはずです。バブルを作り、金融引き締めでバブルを退治し、それをやりすぎて極端なデフレにしたのも金融政策です。見事にインフレ率をコントロールしているのです。
また、戦後のハイパーインフレは、国債発行が過ぎたのが原因ではありません。終戦直前の空襲によるインフラの徹底的破壊が生産能力を極端に低下させ、一方で終戦による外地からの復員による人口増加が需要を増やし、その極端な乖離がハイパーインフレをもたらしたのです。現に戦時中にはハイパーインフレは起こっていません。今一度、戦後のハイパーインフレの原因は何だったのか検証すべきです。
樋のひと雫
羅生門の樋
もう3年が経とうとしているのに、ベネズエラの経済破綻はその出口すらも見えません。国を離れた市民は420~450万人とも伝えられています。推定人口が2800万人程ですから、その約七分の一が国を捨てたことになります。米国の肝いりで用意された国際援助の食糧も、その後どうなったのか判然としません。また、マドゥーロに敢然と反旗を翻し、欧米諸国から多くの支持を得たグアイド国会議長も、救国の騎士を気取った割には国民の支持が今一つです。こちらのマスコミも彼の周辺情報を伝えなくなりました。かつてボ国の行政官とグアイドの話になった時に、彼は「どちらも、どちらだ。」と吐き捨てるように言いました。その時は、中南米を裏庭支配する米国へのアレルギーかと思ったのですが、今となっては、さすが民情に通じていると感じます。欧米のマスコミが、国内でNOと言える中間層が国を捨てたために、世論形成に不都合が生じているのではと書いていましたが、それだけでは反対勢力が伸びない理由としては納得できません。
しかし、内戦でもない国で400万もの人間が逃げ出すという状況は、我々には想像すら困難なことです。例え、この数値が推計であったとしてもです。また、この国の経済破綻とそれに伴う飢餓が、たった一人の人間の無能力と権力欲によって引き起こされたという事実は、何か中世社会に生きているのではと錯覚させる悪夢のようにも思います。そして、容易に国を捨て近隣国に去るというボーダーの低さにも驚きを感じます。スペインの植民地支配の歴史を共有し、スペイン語という共通の言語を持っている。特に南米では、ベネズエラの英雄S・ボリーバルと共に独立戦争を闘ったという経験を共有しているとしてもです。
最近公園近くのカフェで、ベネズエラの若者が話しかけてきました。異国の人間に話すことで、少しでも肩の荷を軽く感じることが出来るのでしょう。国の話や残った家族の様子、自分が働いていた商店や街の様子など、取り留めのない会話を1時間程しました。最後に「今の国には住めない。帰るかどうかも判らない。」と話して別れました。別れた後にも、「お前にとって、国とは何か」と彼が問い掛けているように思いました。
「国」とは自分にとって、古里であり山川であり、祖の眠る地である。謂わば、内に在る歴史であり文化であり、生きている基盤ともいえるものです。更に「国家」とは明日の安心と今日の安全をもたらし、自らに庇護を与える、人と共生するための構造であると。そして、国と国家は一体不可分な関係にあるものと信じてきました。先の若者は国家の統治機構が崩壊した中で、国をも離れました。
国家が民を養うことが出来ず、その統治能力を失った時、自分はどのような道を選ぶのだろうか。何十年も前、若い頃に読んだ句がふと頭に浮かびました。しかも読んだ当時とは違った感慨を伴って。
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)
人が国を捨てる際の感情とは、その覚悟とは…。果たして、自分には出来るだろうか…と。