時代の為に何を残すか・・・
伝えよう!美しい精神(こころ)と自然(こくど)
-議員生活13年の中で感じたこと-
私が府議会に議席を得たのは平成2年4月、荒巻知事の2期目の選挙と同時に行われた補欠選挙の時であり、あれから13年の歳月が流れました。この間に東西ベルリンの壁が崩壊し、ソビエトがロシアに変わり、自民党が政権から下野するなど、歴史の大きなうねりの中で議員生活を送ってまいりました。自由主義対共産主義という時代が終わり、反共以外に何を政治の機軸にするのかが問われる時代に、私の議員生活は始まりました。
議会の中で共産党ともよく議論をしました。その中で私が気づいたのは、共産党の主張は共産主義に基づくものばかりではないということです。共産主義が間違いだということは言うまでもありません。しかし、共産主義ではなく住民の要望や要求だといわれればどうでしょうか。「共産党の主張は財源無視した無責任な政策だ」と言う議員もいます。確かにそのとおりです。では、財源があれば正しいのでしょうか。もっと根本的に、共産党の主張の何が間違っているのでしょうか。私の結論は、「共産党の主張は一部の国民の意見や要望だけで、日本全体の利益を考えていない」、また「次の世代の利益も、国の礎をつくった先人に対する敬意もない。つまり、利己主義に過ぎない」ということです。このことは共産党だけでなく、戦後政治についても言えることではないでしょうか。目先の利益ばかりに走り、歴史観に欠け、日本全体の利益をないがしろにしてはこなかったでしょうか。
例えば族議員の問題です。彼らは、確かに一部の業界や地域の利益は代弁してきたかも知れません。しかし、国全体の利益をおろそかにしてはこなかったでしょうか。民主主義が成立する為には、個々人が自分の利益を追求するだけでなく、社会全体の立場に立った議論が必要です。つまり、公の精神が欠如した要望は単なる利己主義に過ぎないということです。そういう意味では、戦後の政治は公の精神が欠け、利己主義に陥っているのではないでしょうか。公の精神無しに、一部の意見を国民の声として代弁してきたのではないでしょうか。
-戦前と戦後の違い-
公のことを議論すべき政治の場が何故、いつから、私欲代弁の場になったのでしょう。それは、敗戦により政治の世界から公の精神が消滅したからではないでしょうか。言うまでもなく、公の延長線上に国があります。従って、公の精神は当然国のことを考えることに通ずるものです。しかし、戦後社会は「国の為に戦争が起き、多くの犠牲者が出た。これからは国の為ではなく、自分の為に生きるべきだ」という倒錯した精神構造を造り出してしまいました。こうした敗戦によるトラウマ(心の傷)が戦後政治から公の精神を消滅させ、同時に、国民から歴史観を奪ったのです。戦前と戦後に歴史の大きな断絶を生み出してしまい、戦後の日本人は過去を全て否定してきた為、自らの歴史を語ることができなくなったのです。しかし、今日の日本があるのは間違いなく先人の犠牲や努力のおかげです。戦前の日本が子供のために一所懸命働き続けてきたとすれば、戦後の日本は親の恩恵にあずかっていることも知らず、その遺産の上にあぐらをかき、放蕩しているドラ息子と同じではないでしょうか。
-バブル崩壊後の日本から見えるもの-
その放蕩の象徴であるバブルが終わってから十数年が経ちました。この年月は失われた十年と言われますが、一体何を失ったのでしょう。もちろんお金や財産も無くしました。でも、一番失ったのは自信ではないでしょうか。こうすれば必ず成功するという成功の方程式を無くしてしまい、立ちすくんでいるのが日本の現状でしょう。かつては難しいことなど考えずとも、ただひたすら一所懸命に働いていれば、豊かになり、幸せになれました。しかし、今では一所懸命働いてもかつてのように豊かになれないし、幸せになれそうにもないというのが実感でしょう。ところが、現実の日本は世界有数の経済大国であり世界一の長寿国であり、更には大戦後一度の戦争も経験していない世界有数の平和な国なのです。にもかかわらず、豊かさ幸せも実感できない国になったということが本当の問題なのです。
-日本の目指すべきことと私の使命-
現代日本の問題は、結局、人生の目的や意義を飽食の中で見失ってしまい、その為の孤独感や焦燥感が引き起こしたことではないでしょうか。このことは日本だけの問題ではなく、先進国が必ず通過しなければならない問題なのです。かつてローマは、パンとサーカスに明け暮れ、生きる目的を見失った為、自ら崩壊してしまいました。日本もローマと同じ道を歩んでいるのではないでしょうか。
人生の目的や意義は、人それぞれ考えるべきことですが、私は次のように思います。 自分が生きているということは、自分の両親が存在していたことを証明しています。その両親にも両親がある訳です。例えば、仮に日本歴史を2000年、一世代を30年とすると70代に及ぶ祖先がいることになりますが、いったい何人だと思いますか。その数は2の70乗という天文学的な数字になります。そしてこのうちのただ一人が欠けても、私の存在がないというのです。このことは、果てしない生命の連続の上に自分があるということを、否が応でも教えてくれます。そして生命の連鎖の中にある自分がすべきことは、この繋がりをいかに次の世代に伝えるかということ以外にほかありません。生命の連続に感謝し、今を一所懸命に、真剣に生き抜き、次の世代に自分が生きた証をしっかり伝える、これが私にとっての人生の意義です。これを国で考えると、国の歴史の積み重ねをしっかりと受け継ぎ、次世代にそれを受け渡すということでしょう。
先祖から受け継いできたものはたくさんあります。でも、自分を自分たらしめているものは何かと問えば、やはり、肉体と精神でしょう。肉体は文字通り遺伝です。精神は遺伝と同時に、家族や友人や社会との関係が複雑に影響したもので、言い換えれば、その人の生き様が作り出したものではないでしょうか。そして、このことを国に当てはめると、我々が先人から受け継いできたものは、自然環境を含めた国土と精神の形としての文化や伝統ということではないでしょうか。
私はこうした思いから、「伝えよう!美しい精神(こころ)と自然(こくど)」と何年も前から訴えているのです。そしてこの言葉が広がることにより、政治に歴史観と公の精神がよみがえり、私たちの生活に希望と期待を取り戻すことこそが私の使命だと思うのです。