旧年中は大変お世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
※ 昨年11月19日、父 正四位 旭日重光章 前参議院議員西田吉宏が逝去いたしましたので新年のご挨拶はご遠慮させて頂きます。
第53号
2008年01月15日発行
参議院議員
※ 昨年11月19日、父 正四位 旭日重光章 前参議院議員西田吉宏が逝去いたしましたので新年のご挨拶はご遠慮させて頂きます。
昨年夏の参議院選挙での自民党の大敗を受けて、国会は混乱が続いています。衆議院と参議院の多数派がねじれのため、重要法案が可決は勿論、審議することにも支障をきたらしているのです。
確かに、参議院で自民党が敗れた以上、民意は民主党側にあるという彼らの主張には一理あるでしょう。しかし、その民主党は何を訴えていたのでしょうか。逆に言えば何が原因で自民党は敗北したのでしょうか。
年金問題、格差社会が選挙では争点のように言われ今はインド洋での給油活動の是非が問われています。しかし、本当にこれらが対立の軸になっているのでしょうか。年金問題は、社会保険庁のずさんな管理体制や制度設計の不備の問題であり、安倍内閣の責任が問われるものではなかったはずです。格差の問題は、競争至上主義のもと規制緩和一辺倒になった結果です。この点については、私も一貫して反対してきましたが、自民党に責任があるのは当然です。しかし、民主党自身もこの間、規制緩和を訴え続けてきたのではなかったのでしょうか。元を正せば、マスコミに先導される形で自民、民主とも規制緩和を競い合った結果ではなかったでしょうか。
また、新テロ特措法の争点もよく見えていません。そもそも小沢さん自身、自民党との大連立を提案したのですから、対立の軸など存在していなかったのではないでしょうか。選挙に勝ち政権を取るための手段や方法として、ことさら対立が強調されているだけで、今の自民党や民主党に根本的な対立があるとは思えません。かつての冷戦時代のような、体制選択が問われる程の対立などないのです。そのことは国民が一番よく分かっています。根本的な対立がないから国民はその時の空気や雰囲気で与党野党を自由に選択できるのです。衆議院では自民が大勝し、参議院では大敗し、国会がねじれてしまったのはそのことが原因です。これは国民の意思がねじれているのではなく与野党とも政治の方向性を示せず、本当の意味で国民の意思を問うことが出来ていなかったということでしょう。今日、日本には与野党が対立するほど問題がないのではなく、真の問題を政党が示せていないということです。
本当に問うべきことはこの国のかたちなのです。教育、外交防衛、経済から家族の姿に至るまで、戦後の日本はアメリカをモデルにした型枠の中に押し込まれてきました。当初は押し込まれたはずのものでしたが、最近では自ら進んでその枠の中に入ろうとしています。このことがジャパンプロブレム(日本の根本的問題)の本質なのです。
ところが与野党ともこのことに目をつむったまま、目先のことばかりに対立しているのです。このことを私は一貫して訴えてきましたが、安倍総理の戦後レジームからの脱却もまさにこのことを目指していたはずなのです。残念ながらこのことは自民党のなかでもきちんと議論されませんでした。国会議員になって半年足らずですが、毎朝8時から自民党本部で行われている様々な部会に参加し、議論をしています。自民党国会議員の勉強ぶりには本当に感心しています。しかし、今の自民党ですら肝心の戦後体制そのものを根本的に問い直すということが議論出来ていないのです。むしろ戦後体制を前提としているのです。そして戦後体制を前提としているのは民主党も同じです。これでは対立の軸が国民に見えるはずがありません。
私たちひとり一人の国民生活の問題を様々な部会で議論し国会の場で解決する。これは勿論大切なことです。しかし、その大前提となっている戦後の仕組みそのものについては何の議論もしない。これでは問題の解決にならないのです。
これではまさにモグラ叩きをしているようなものです。自民党が本当にすべきことは野党とモグラ叩きを競い合うことではなくモグラの正体を見極めることなのです。
父、西田吉宏 前参議院議員が、去る11月19日永眠致しました。生前お世話になった多くの方々に、心より御礼を申し上げます。
突然の訃報に驚かれた方もおられたかと存じます。父は平成16年の春に肺小細胞ガンの疑いがあると言われてから3年間、入退院を繰り返しながら、闘病生活を続けていたのです。
更に、その前年の平成15年の6月には、地元京都の市議の結婚式でクモ膜下出血に見舞われたこともありました。この時は、友人で当時府議の脳外科医が運良く同席していたお陰で、直ちに手術がなされ、奇跡的に何の後遺症もなく1ヵ月後には退院し、国対委員長として政治活動の第一線に復帰することができたのです。まさに九死に一生を得たのです。父本人はもとより、家族ともども天と先祖のご加護に心より感謝したものでした。
ところが、人の世は無常なものです。その1年後に肺ガンを発病したのです。肺ガンの疑いがあるという医師のことばに目の前が真っ暗になりました。それでも、正月に精密検査の結果がでればきっと疑いは晴れる、そう信じ込もうとしていました。しかし、年明けに待っていたのは厳しい現実でした。父の病名は肺小細胞ガンであり、これは手術では治せない、余命は半年もしくは1年言われた時は、心臓が凍りつく思いがしました。
その上、ガンの治療中に脳梗塞になり、その影響で転んで背骨を骨折、また脳梗塞の根本的原因であった頚動脈の狹塞をステントで広げる手術をするなど、次々に病魔が襲ってきました。たとえ万分の1の可能性でも、必ず父を治す、このまま死なせてなるものか、家族皆のそんな思いが通じたのでしょうか、どれもが死と直結する大病でしたが全てを乗り越えてきたのです。
お陰様で、父のガンは消えました。そして、また第一線に復帰し、参議院国際問題調査会長として、海外に出張することも出来たのです。まさに奇跡は起こったのです。このまま順調に回復してほしいと誰もが祈っていました。
しかし、平成18年の秋にガンが再発したのです。しかも、肝臓にも転移しており、年内も厳しいと言われた時には神をも恨みました。家族の願いも虚しく、平成19年11月19日午後8時59分、家族に見守られ、眠るように息をひきとりました。せめてもの救いは、父に私の初当選を報告でき、自らも旭日重光章の栄に浴せたことです。
父は、祖父が長い間病床にあったため、若い時代より幼い妹弟の父代わりとして働き、高校へ行くこともできませんでした。私には、父の人生はまさに戦後日本の歩みそのもののように思えてなりません。父は昭和9年生まれですから戦争には行かなかったものの、戦後の混乱と貧困の中で家族を守り必死で生きてきた世代です。私は、そうした混乱と貧困がようやく落ち着きをとりもどしつつあった、昭和33年に生まれました。ちょうど「ALWAYS三丁目の夕日」のように、貧しかったけれど希望に満ちあふれていた時代です。その時代を引っ張ってきたのが、父の世代だったのです。父の世代は、戦後の復興という大きな使命を果たしました。そして父もまた、その使命を充分に果し、満足のいく人生であったろうと確信致します。
振り返って、今日の日本はどうでしょうか。私は、また私の世代は、その使命を果しているのでしょうか。私は、父がクモ膜下出血を患ってからのこの4年間は、特にこのことが頭から離れませんでした。
貧困から脱出し、豊かな生活を皆が送れるようにする。その為に父は、働き、生きてきました。そして、日本という国もそういう時代を乗り越えてきたのです。
そのお陰で我々は、豊かな生活をしています。勿論、様々な格差や貧困があることも事実です。しかし、それはあの父たちが必死で生きてきた時代とは、根本的に違います。今日の問題は、物質的な豊かさの崩壊というより、父の世代が必死で守ろうとしてきた家族や国という人が人として生きるための根源的なものが崩壊し、涸渇してきていることではないでしょうか。それは、ある意味で人間や国家の存在意義の希薄化ではないでしょうか。
何度も死の淵に立たされ、その度にそこからはい上がってきた父。父が本当に伝えたかったのはこのことではなかったのかと思います。もう一度、人間や国家の本質を見つめ、国と人間としての力を取り戻す。これが残されたものの使命だと思うのです。
炬燵(こたつ)、火鉢(ひばち)、行火(あんか)。これらは、かって我々が冬場に暖を取っていた道具です。
炬燵(こたつ)は禅宗の僧侶が中国から持ち帰った物とされています。当時、寺院や武家では火鉢(ひばち)が客向け用の暖房器具で、炬燵(こたつ)は家庭用であって庶民の暖房器具でした。炬燵の熱源は、古くは木炭、豆炭、練炭などですが、現在では電気が主流になっています。床から足をおろせる堀炬燵(切り炬燵ともいう)タイプと、床が平面のままの置き炬燵タイプに分けられます。櫓(やぐら)の上に炬燵(こたつ)布団をかけて、布団の中に手足を入れて暖を取ったものです。3丁目の夕日の昭和30年代の冬に寝る時の暖房は、この炬燵を中心に布団を敷き、足を入れて寝たものです。
この置き炬燵(こたつ)の一種で、おおきな櫓(やぐら)の代わりに、焼物か小さな櫓で囲ったものが行火(あんか)です。写真のような形をしており、カルメラ焼きのお菓子に「おこた」が在りますが、この形を見立てたもののようです。
瓦も小学生のころ、炬燵(こたつ)を中心に十字状に布団を引いて寝た記憶があります。炬燵(こたつ)の中には炭や豆炭が入っており、むやみにけとばせん。お行儀よく寝なければならず、決して暖かかった想い出はありません。そこへ「豆炭あんか」なるものが登場してきました。豆炭1個で朝まで暖かく、おまけに蹴飛ばしても大丈夫。何よりうれしかったのは自分だけの「マイアンカ」が出来たことです。これまで炬燵の位置関係で隙間風が入る場所で寝ていたものが何処でも自由に寝る場所を選べるようになったのです。当時,「マイアンカ」は冬の暖房器具の大革命のような記憶があります。
ところで、この豆炭あんかはもう生産中止になっているだろと思っていたら、インターネットに出ており、「品川あんか」から標準価格¥2,250で出ています。
さて、この豆炭なるものですが市内ではなかなかお目にかかれませんが、郊外のホームセンタに行けば、まだ販売しています。この豆炭、1920年(大正9 年)大阪の川澄政が発明し,ミスジ豆炭の商標で売り出されました。石炭、木炭、亜炭などを粉末にして接着剤(主に石灰)に混ぜた後に、角に丸みのある正6 面体状に固めたものです。色と形がよく似たものに炭団(たどん)がありますが、こちらは木炭の粉をふのりで固めたもので歴史的には豆炭の先輩に当たります。
灯油が高騰しているこの冬、暖房機器を見直してみてはいかがなものでしょうか。部屋全体を暖める機能はありませんが、いったん足を入れるとなかなか抜け出せなくなる炬燵に、家族身を寄せ合いながら暖を取るのはいかがでしょうか。もちろん寝る時はマイ豆炭行火(あんか)で。(今回の暖房器具の漢字は,かなり難解なモノが多く,瓦も漢字検定を受けている気持ちで書きました。)
~出雲大社と玉造温泉の旅~
平成20年9月7日(日)~8日(月)
平成20年 1月28日(月)
会場:六孫王会館 時間:PM7:00~9:00