前代未聞、一国会に四度の予算
参議院財政金融委員会にてコロナ債務免除を提言!反対する財務省を一喝!
第201国会は、6月17日に閉会致しました。今国会では、平成31年度の補正予算、令和2年度の当初予算、その後、第一次、更に第二次補正予算と、1国会で4つの予算を成立させると言う異例尽くめの国会となりました。これはもちろんコロナ対策のためなのですが、その結果、今年度は補正予算と合わせて事業規模230兆円、GDP(国内総生産)の4割に上るものとなりました。新規の国債発行額は当初予算と補正を加えた令和2年度全体で過去最大の90兆2千億円に上り、歳出の56.3%を占めることになります。
当初予算では63兆円の税収を予定していましたが、コロナショックのため税収が落ち込むのは必至であり、最終的には更に多額の国債を発行する事は必定です。更にこの先、第三次補正予算を組んでコロナ後の景気対策も行わなければなりません。国債の発行額は更に増えるでしょう。しかし、心配無用です。国債発行額が増えても何ら問題は有りません。通貨と国債の関係を理解していただければ、その理由が分かります。
不換紙幣になった通貨は無限に発行できる
通貨である円(日銀券)は、日銀にとっては負債ですが、返済期日もなければ金利も付きませんから、本来はただの紙切れです。そのため、かつては紙幣の信用を保証するために、兌換紙幣として、そのお札と同額の金と交換することが義務づけられていました。日銀は常に一定額の金の保有が義務付けられていたのです。これが結果的に、金の保有量が通貨の発行額に制限を加えることになりました。
その結果、日銀は自由に金融政策を行えず、昭和の初めには大恐慌をもたらしました。その経験から、通貨は金と交換義務の無い不換紙幣になったのです。不換紙幣になってからは金の保有量による制限もなくなり、通貨発行には何ら制限がなくなっているのです。
通貨の不換紙幣化が国債発行の制限を無くした
日銀による通貨発行は具体的には次のようにして行われます。日銀は国債や株式や社債等を市場から買い入れ、その代金として日銀券を発行することにより、市場に通貨供給をします。これが通貨発行です。この手続きを買いオペ(金融緩和)と言い、逆に買い入れた国債等を売ることを売りオペ(金融引き締め)と言います。その時の経済状況に応じて、 買いオペと売りオペを使い分けることにより、通貨量と金利を調整して金融政策を行っているのです。
現在日銀が行っている異次元の金融緩和は、大規模な買いオペです。今は、買い入れ額の限度を設けずに、市場を通じて銀行から大量の国債を買い取っています。その結果、銀行には国債の買取代金として多額のお金(日銀券、実際には日銀当座預金)が振り込まれています。
企業間取引の決済は、大事な銀行の業務です。銀行間でその決済に使われるのが日銀当座預金です。買いオペの結果、銀行の手許には多額の日銀当座預金があるため、銀行間取引を決済をするのに銀行は資金を借りる必要が有りません。そのため金利は限りなく低くなります。これがゼロ金利政策です。日銀が銀行に大量の通貨を供給した結果、お金がだぶつき金利がゼロになっているのです。
国債は政府の負債であると同時に、日銀にとっては金融政策を行う上で欠かすことのできない資産です。兌換紙幣の時代には、金の保有量により通貨発行額に制限が加えられていたため、買いオペにも限界がありましたが、今はありません。そのため、政府の国債発行に財政上の制約はなくなっているのです。この事実を財務省は無視しています。
子や孫に借金をつけ回すなの嘘
「無闇に国債を発行して子や孫に借金をつけ回わすな」はモラルとしては正しいです。しかし、事実は、国債発行は子や孫の代に借金をつけ回すことでは無いのです。
今回のコロナ対策の様に、国債発行により給付金を支給した結果、政府の負債は増えました。一方で、国民の現金預金が増えた事も事実です。つまり、新規国債発行をして予算を執行すれば、政府の負債は増えるが、その同額の預貯金が必ず国民側に支給されることになるのです。これは、給付金に限りません。公共事業であっても、年金の支給や医療などのサービスの提供でも全く同じです。つまり、国債を新規発行による予算執行により、政府の負債は増えてもその分同額の現金預金が、国民側で必ず増えるということです。これは、否定のしようの無い事実なのです。
国債残高は必ずしも減らす必要が無い
西村大臣に緊急事態宣言解除後の経済活動の段階的な再開を訴えました。
国債発行により国民側に預貯金が供給されるのが事実だとしても、「国債は償還期日が来ればいずれは返済しなければならないはず。そのためには税金を徴収する必要が有る。結局、孫や子の代が負担することになるのでは無いか」と考える人もいるでしょう。しかし、それも間違いです。
何故なら、国債の償還は必ずしも税金でする必要が無いからです。償還額と同額の国債を発行して償還すれば良いのです。これは現実には、我が国始め、どこの国でも行なっていることです。
例えば、令和2年度の当初予算の内、公債金(新規国債発行額)は32兆円です。一方、歳出の内、国債費(国債償還額)は23兆円です。現実に国債の償還の為、新たな国債を発行しているのです。国債の償還より新規国債発行額の方が多いことから、国債残高は増え続けていますが、その分、国民側に現預金が供給されているということです。
事実、日銀によると2020年3月末での家計の金融資産残高は1,845兆円にも上っています。「豊富な個人金融資産のお陰で日本は国債発行が可能になっているが、高齢化で取り崩されれば預金は減り、いずれは国債を買い支えられなくなる」と言う人がいますが、これは本末転倒の暴論です。
事実は、国債残高が増えた分だけ、国民側の現預金が増えているのです。また、高齢化で預貯金を取り崩す人が増えるのは事実としても、それを取り崩して消費に使うわけですから、誰かの現預金が必ず同額増えるのです。これが事実です。テレビのキャスターなどもこうした発言をする人がいますが、全く勘違いをしています。
税金をなくせと言うのはモラル崩壊を招く
国債発行により予算が組むことができ、しかも、国民側に現預金を供給することができるのなら、「税金など取らず、予算は全て国債発行で賄えば良いではないか」この様に反論する人も出てくるでしょう。しかし、これは暴論です。
もし税金がなくなれば、そもそも納税の義務がなくなるわけですから、国家を国民が支えるという国民道徳は無くなってしまいます。そもそも近代国家は、自分の国は自分で守り、自分で支えると言う国民道徳がその前提にあります。そして、その運営のための経費は自らが賄う、つまりこれが税金なのです。そして、自ら国を守り、国を支えると言う崇高な義務を果たす市民には、主権者としての権利が与えられているのです。
こうした考え方に則り近代国家は作られたのです。国民から税を徴収して、それを財源に予算を執行するという発想からは、当然、財政は均衡すべきであるという考えになります。入を量りて出るを制すと言われる様に、予算執行に必要な税金を徴収するのが当然だということです。
近代国家では、国民は国家から安全保障や教育、医療や介護などの福祉サービスの提供を始め様々な便益を受けます。その結果、その便益に対する対価として税を負担するのは当然ではないかというモラルが生まれます。私もかつてはそう考えていました。しかし、モラルだけに縛られて財政の真実を見落としてしまうと、結局、国家は滅んでしまいます。モラルと同時に、財政に対する正しい認識が必要なのです。
モラルと同時に正しい財政論が必要
岸田政調会長に鉄道関連予算の大幅な拡充を申し入れました。
「入を量りて出るを制す」は国民道徳としては正しいですが、残念ながら、財政論としては間違いなのです。そもそも、これに固執していては、国民を救う事はできません。
具体的に今日のコロナ禍のことを考えてみましょう。多くの国民がコロナ禍により経済活動の自粛を余儀なくされました。それが消費の急激な減退をもたらし、国民から所得そのものを奪っています。当然、税収も落ち込みます。財政均衡主義に立てば、税収が減れば予算も減らさねばなりません。
しかし、流石にこの状況下で予算を減らすことはできないでしょう。国民生活を守るためには、むしろ、積極的に必要な予算を出すべきだと誰もが感じているはずです。国民が苦しんでいる時には国家が救うと言うのは、国家の当然の責務です。国民が国家を支えるのは、国家が国民を守ってくれるからです。肝心な時に国家が国民を守ってくれなければ、国民が国家を作った意味がありません。
そこで、冒頭に述べたように巨額の補正予算が策定されたのです。巨額の国債を発行して財源としていますが、それが問題ない事は先に述べた通りです。しかし、国会議員や財務省の官僚、経済学者の中には、未だに通貨と国債との関係を理解していない人が、多数存在しています。兌換紙幣(金本位制)の時代と不換紙幣(管理通貨制度)の時代では通貨の本質が全く違うものになっていること(MMT現代貨幣論の本質)に気がついていないのです。
緊縮財政がコロナ禍と災害をもたらした
さて、今年も九州や岐阜県や長野県などで洪水による被害が報告されています。こうした災害は毎年のこととなっています。その様な中、九州の球磨川では洪水対策のためダムの建設が予定されていたにも拘らず、脱ダムの世論に押されて建設を諦め、その結果、甚大な被害を招いたのではないかということを報道で知りました。昨年は、八ッ場ダムを巡って同じ様な議論が有りましたが、この背景に有るのはこの20数年吹き荒れた公共事業は無駄なものとする世論です。
公共事業は国の債務を増やす元、これ以上、子や孫に借金を背負わすなと言う世論が、結局、その命を奪うことになったのです。国債を国の借金と決めつける誤解が招いた不幸です。二度とこの様な過ちを繰り返さないためにも、国債を正しく理解しなくてはなりません。
MMT(現代貨幣論)に限界は無いのか
国債は子や孫に借金をつけまわすものでは無く、現実は国民の現預金を増やすということ、国債償還は税金に依らずとも新たな国債発行で賄うことができるということ、また、不換紙幣の時代には、国債発行に制約が無くなっていることを述べてきました。結果として、財政論的には国債発行は無限にできるということなのです。
ただ、国債発行が無限にできても、納税を否定すれば国民道徳は崩壊し、国家は成り立たなくなる事も事実です。その意味において国債発行の限界は財政の破綻では無く、モラルの崩壊に有るのです。
また、国債発行が国民側の現預金を増加させるため、それが消費や投資にまわればインフレになる事も事実です。インフレ率に注意を払う必要が有りますが、インフレを恐れて緊縮財政を基本とした結果が、今日のデフレを長引かせたことを忘れてはなりません。
MMTはオールマイティでは有りませんが、少なくとも今日の長期停滞、とりわけコロナ禍を乗り越える大きな政策の道具であることには間違いありません。
樋のひと雫
-ボリビア通信-
羅生門の樋
街路樹の葉も落ちアンデスの神々の座も白く輝き、人々は訪れる冬に備える今日この頃・・・などの描写で始めるはずですが、今年はコロナ禍で久々に日本の梅雨を楽しんでいます。隣国ブラジルでは150万人、ペルーでは30万人が感染していると言われていますが、我がボ国は正確な人数は不定です。La RazónやPrensaという当国の新聞記事を見ていても、「本日の感染者数」という確かな人数が見当たりません。友人にメールで問い合わせても「No sé(知らん)」という答えばかりです。どうも、保健省も正確には把握できていないようです。尤も、4、200メートルの高地からアマゾンの源流まで、日本の4倍の国土に1千2百万人程が点在しているのですから、正確な把握は端から諦めているのかも知れませんが…。それでも、記事には30ほどの病院が院内感染で閉鎖されたとか、患者が診療所に押し寄せ、それが原因で感染が拡大している等の様子を伝えています。
友人たちのメールにも、「外出禁止令が出て個人IDカードの末尾の数字で外出が許される。」とか、「週に1度の買い物しか出来ず、食料品の確保も困難だ。」などの連絡も来ます。マスクや消毒アルコールが市中には無く、「自分は檻の中の熊だ」というのもありました。中には、半ばヤケクソ気味に「チューニョ(乾燥馬鈴薯)とチチャ(トウモロコシの発酵酒)を飲んでれば感染しない。」というのもあれば、行政機関の友人からは「登庁命令が出ているので行くが、もう会えないかも…」という悲惨なものまであります。友人達のメールを見ながら、世界から見れば安全な日本に居ることに、何か後ろめたさも感じます。
ボ国は年末から今年に入って国難続きです。昨年末には、憲法の規定に反しエボ・モラーレスが大統領の4選20年を目指しました。彼は憲法の改定を図りましたが、国民投票では否決された経緯があります。出馬を強行したこの選挙では、「民主主義の否定だ」として多くの市民が街頭に繰り出し、エボ支持のMAS(社会主義運動)派住民と各地で衝突しました。初めは反対派のデモを鎮圧していたコチャバンバ市の武装警察隊の一部が、「我々を市民の弾圧に使うな」と出動拒否の姿勢を明らかにします。この動きが各地に広がり、彼は首都ラパスを放棄し、本拠地のチャパレに逃れました。その後は軍部も反エボ派支持に回り、メキシコに逃亡することを余儀なくされ今はキューバに居ます。しかし、残されたMAS派はデモや道路封鎖を繰り返し、国を二分した対立は未だに続いています。
原住民出身の初の大統領として現れた時には、随分と清冽な印象を受けました。1回目の選挙で過半数の票を獲得したのも彼だけでした。原住民だけではなく、多くの国民から支持を得ました。最初の選挙の際には、コカ栽培農家組合のレクレーション係から昇り詰め、MASという政党を組織するほどの資産を形成したことには、とかくの噂が立ちました。それでも南米の政治家には見られない、鮮烈な変革への希望が伺えました。ある会合で「日本はボリビアの真の友人だ」と言って、ハグで私を迎えてくれたことを思い出します。
3期15年の中で、中南米の状況も随分と変化しました。急激な国際経済の変化もあり、師であるフィデル・カストロや盟友チャベスも去りました。原住民解放の中南米の反米主義も中国の資源獲得を目指した覇権主義の中で変質を余儀なくされています。いつの日かコロナ禍が収まれば、暫定大統領は選挙を行うことでしょうが、その時にはどのような人物が選ばれるのか、楽しみでもあります。その際には、再びボ国に戻りこの目で見たいものです。