年明け早々の1月2日に発生した、ロシア船籍のナホトカ号沈没事故は、京都府始め、日本海側の多くの府県に大きな被害をもたらしました。京都府では1月8日に警戒本部を設置し、重油が漂着しだした1月9日には、事故対策本部に切り替え、被害を最小限に食い止めるための措置をとって参りました。また、われわれ自由民主党も事故発生直後から地元の丹後選出議員が中心となって、現地を視察、激励し、行政機関に対しましても適切な措置を迅速に行うよう要望をしてきたところであります。私自身も府議会の警察常任委員会、環境対策特別委員会を通して直ちに現地に直行し、現場を調査視察をするとともに、ボランテイアとして重油回収作業に力を注いできたところであります。
そうしたことを踏まえまして、私は2月11日(建国記念日)に当初予定しておりました党の全国統一街頭演説を中止し、自民党の青年局長として京都府下の青年党員に、重油回収作業への参加の呼びかけを致しました。最初はどれほどの参加者があるかと心配しておりましたが、大型バスと乗用車を乗り合わせて青年党員を中心に約70人が参加をし、猛吹雪の琴引き浜で重油回収作業に微力を尽くして参りました。重油回収に先立ちまして、網野町の浜岡町長から、これまでの被害の状況や回収作業の問題点などについて説明を受け、新聞やテレビなどでは伝わらない現地の人々の悩みを知ることができました。
こうした経験から私は今後の教訓とすべきものとしていくつかのことを感じました。1つは、一昨年の阪神淡路大震災でも言われたことですが、まさかの災害に備えての危機管理体制がまだまだ十分とは言えないというこであります。関係の市町や舞鶴にあります第八管区海上保安本部や、海上自衛隊との連絡体制は大震災の教訓が生かされましたが、問題は重油の回収は海上にしろ、陸上にしろ、最終的に手作業によらざるをえなかったことです。今後も日本海には老朽化したタンカーの往来が多いことから、いつ同じような事故が起きるやも知れませんし、いつ海底に沈んでいる重油が船から流出し漂着するとも限りません。京都府が開発をした砂油離(さゆり)号は1台で300人分の働きをすると言われていますが、今後は重油回収船など海上での回収装置の設置が早急に必要となります。
2つめは、ボランテイアのあり方です。今回の重油回収作業には延べ何万人もの方にご協力を頂きました。その協力がなければこれほど早く重油回収はできなかったと思います。しかし、そのボランテイアの方々が円滑な作業ができるように、地元では受け入れ体制をつくるのに、大変な負担をしています。大震災の時もそうでしたが、自衛隊や、機動隊という部隊が災害復旧に来てくれるのと、一般のボランテイアが来てくれるのとでは、地元の負担も全然違うのです。前者の場合は放っておいても仕事をしてくれますが、後者の場合には仕事ができるように段取りをしておかねばなりません。いわば、ボランテイアの世話をするボランテイアが必要なわけです。それは一体誰がしているのかと言えば、地元の町役場の職員であったり、漁協の職員であったり、まさに地元の人間が昼夜兼行でボランテイアの受け入れ体制づくりを行っているのです。今後はそういうことも頭にいれながら、地元に負担をさせないボランテイアのあり方というものも、考えておく必要があると痛切に感じました。今学校では、ボランテイア教育を盛んに取り上げていますが、このことにも目を向けるよう府とも話し合うつもりです。
最後に地元の町長さんたちが是非とも皆様に、お願いをしておいてほしいと異口同音に言われたことをご紹介致します。「重油の回収では大変お世話になりました。今度は是非ボランテイアではなく観光客として、蟹を食べに、また、海水浴に来て下さい。それが何よりのボランテイアです。」皆様のご協力、ご理解をお願い致します。
シリーズ教育 -制服の是非-
先日(2月25日)京都府議会本会議で,桂高校の制服導入問題を取り上げ,府知事・教育長に質問をしました。いくつかの新聞にも取り上げられましたので,お読みいただいている皆様もおられることと思います。しかし,残念なことに余りにはしょった記事だったために,私の教育に対する質問が何か「制服」の導入という形のみにとらわれているかのような印象になっていました。そこで,質問の内容を振り返りながら,教育の何を問い正したかったのかをまとめてみました。
桂高校ではここ最近,茶髪やピアスでの登校や遅刻の増加などの問題が多く,地域や地元保護者からも改善を望む意見が多く寄せられていました。新しく就任した校長先生は,生徒指導・学習・進路指導の充実を図るためには,まず,生徒の生活の乱れを直し,規律ある生活を送らせることが至上命題であると考え,その方策の一つとして制服の導入を提案し,職員会議や部長会議等で検討討議し,生徒会や全校生徒にも説明し,一年以上の時間をかけ準備をされてきました。昨年の2学期の終業式の際に制服導入の決定を伝えたところ,式後に一部生徒が校長に詰め寄るなどの行為があり,新聞にも報道されました。また,3学期の始業式でも再度校長は制服導入を伝えたのですが,その後に壇上に上がった生徒指導部長は,「校長に負けないで,みんな生徒会としてもっと反対の意見を盛り上げよう。」という趣旨の発言を行い,会場は混乱に陥りました。またこのような中で,一部の保護者の方々からは,説明が不十分で拙速であり,もっと時間をかけるようにという要望書も出されました。
生徒指導部長が生徒を煽動し,対立を助長させるような言動はもっての外ですが,私は次の3点から,この問題を考えてみたいと思います。
1. 制服そのものに対する是非の問題。
2. 学校の組織運営をどう捉えるかの問題。
3. 導入の際の手続きの問題。
1番目の制服の問題は後で述べるとして,2・3番目の問題について先に触れたいと思います。
府や教育委員会は,学校運営は校長を中心として円滑に行われるものと考えていますが,組合や共産党は,学校は生徒や職員会議が中心であると言っています。学校は子どもに教育を行う場であり,教育活動の主人公は生徒や子どもであることは当然です。
しかし,学校は生徒を教育する目的を持った組織であり,学習活動の主体としての生徒や子どもと,教育という目的意識を持ち,計画的・系統的な目標と内容を,組織的に行うための運営体制とは別の次元の問題であります。
これを意識的に混同し,「場としての学校」と「組織としての学校」を同列に論じるのは,為にする論議,混乱を意図した論議と言われても仕方がないことであると思います。
学習がおこなわれるプロセスの中で生徒が主役となり,自分の考えを述べ,検証を行うのと教育目的に沿って計画的・意図的にこれを行うのとは大きな違いがあります。学校が組織的に行う教育計画や系統的運営で校長の姿勢に反対だからと言って,生徒を煽動するような態度は,教師としての己の指導責任を捨て去るものと言っても過言ではないでしょう。私は,学校運営は校長を頂点として円滑に運営されるものと考えています。そのため,校長は学校で行われる教育活動に際して,法に沿って施行された学校の管理運営規則に則り,自己の教育信念を貫き,また,学校の最高責任者としての位置にあるのです。学校組織という運営の中で校長は最終責任を負いますが,それは部下である教員は何をしていてもいい,責任は校長にあるのだからというものではないはずです。
次に,手続きが拙速ではという意見がありますが,これも少し的外れの問題だと言えます。桂高校では,校長就任以来1年半の時間をかけて論議がされてきました。なるほど,公式発表は昨年の12月かもしれませんが,これも一部の教職員組合に属する教師が,徹底的に校長に抵抗し発表を遅らせたといいます。また,この手続き問題を指摘される方々の意見では,現実の生徒の服装や目に余る遅刻,生活の乱れなどの改善に向けた指針や意見には何も触れず,単に説明が不十分と言っているにしか過ぎず,現実の問題を解決する方法には目をつむっているとも言えます。
さて,高校に「制服」を導入する意味は何でしょう。勿論,企業や工場で安全や衛生のことから制服を着るのとは意味が違います。先日,テレビで高校生の制服着用を取り上げ街頭でインタビューしている様子を放送していましたが,外国人からは「奇異に感じる」や「日本の文化」などの意見に対して,女子高生からは,「私服では華美になる」や「高校時代にしか着れないから」などの意見が出ていました。また,新聞報道でアメリカの或る州では,子どもたちの安全(事故や麻薬売買等に巻き込まれない)のために,制服を導入する話が報じられていましたが,今の日本ではこれは考えられない話です。では,制服の導入にはどんな意味が有るのでしょう。
桂高校の制服導入の際の校長の考えは次のようなことです。
1. 見られている学校,見られている自分を意識させる。
2. 桂高校生であることを意識し,桂高校生としての一体感を養う。
3. 学校生活にけじめ・めりはりをつけ,授業での集中力と意欲を喚起する。
以上3点をあげ,ここ数年の茶髪やピアス遅刻といった生活態度の乱れに対して指導の第一歩にしたいということでした。
勿論、制服導入が万能の特効薬ではありません。しかし、現実に学校運営の先頭に立ちがんばっている校長や生徒指導や授業の前面で取り組んでおられる先生方の立場からすれば、これに勝る改善策がないのも事実であります。私も、PTA会長をしていた経験から,今の教育のしんどさもある程度は分かっています。今後も,府議会では先頭に立って質問もし,学校の正常化のためには支援を惜しまないつもりです。
或る高校の先生から,茶髪やピアス以上に問題はポケベル・携帯電話の使用であるという話を聞きました。授業中の電話の使用を注意したら,「掛かってきたから仕方がない」という返答だったそうです。また,或る先生が茶髪を注意したら,「煙草と違って体に悪いことはないし,そんな法律も規則もない。これも私の個性だからいいじゃない。」と言われて,はたと返事に困ったという話も聞きました。
このような話を聞くにつれ制服の導入以上に何か先生と生徒の関係に問題があるのではないか,価値観の問題や価値判断の混沌が学校にあるのではないかと疑問に思いました。子どもたちには,集団における個性の在り方やその発揮の仕方を取り違え,指導すべき先生方にも,集団の規範やルールという問題を,個人のレベルと混同視する誤りがあるのではないかと思います。
先ほどの先生も,生徒の態度がいいとは少しも思っていないでしょう。しかし自分の価値観に自信が持てない,何故いけないのかを教える自信がないのだと思います。昨年の中教審第1次答申では,「生きる力」を身につけることが今後の教育に必要であると述べておりますが,何のために「生きるのか」は触れられておりません。この何のためという目的が無ければ,生きる力は個々ばらばらな,単なる方法になってしまうでしょう。そのため,この何のためにを身を持って教えるのが先生であろうと思います。
子どもたちが,何のために生きるのかを考える力を身につけているのなら,先生が困惑するほど子どもたちの生活が乱れたり,意欲の無い生活を送ることもないでょう。
制服を着るのは,子どもたちに自らのアイデンティティを考えさせる機会であるかもしれませんが,子どもたちを「管理」する手段ではないはずです。子どもたちの生活の乱れは,子どもたちに自らの生活を判断する価値基準を何ら育て得なかった学校の責任も大きいはずです。一見すると,物分かりが良いように見えても,自分の価値観を語らず,迎合するだけの大人には子どもは信を置くことはないでしょう。桂高校の問題も,制服の導入に際して、校長先生が自らの人生観や教育観を先生や生徒に一年半掛け話し合ったと言うことは、その意味で評価できることです。規則や校則だけでは,教育と無縁な管理になり,表面を繕うことだけを教えることになるでしょう。
教育は結局のところ,社会の価値を,先生や親の人生観・信念を通して子どもたちに伝えていくことだと思っています。数学や理科の知識は,それだけに価値があるのではなく,それを生み出し育ててきた文化を共に伝えてこそ価値があるものと思っています。教育は単なる知識のみを子どもたちに伝えるのではなく,それを育んだ文化を伝えてこそ教育としての価値があるのです。学校は子どもたちの良き社会人として道徳や価値観,日本の文化や伝統を守り次代に伝えていく力を育て,社会の一員としての善な資質を育てていく責務があると言えます。先生や親はこの最前線に立っていると言えるのではないでしょうか。