故郷喪失の現代人
-参議院予算委員会にて整備新幹線について安倍総理に質問しました-
今から150年前、明治維新の頃の日本の人口は約3300万人で、その内、東京の中心部には67万人がいたに過ぎません。京都の中心部に23万人、大阪の中心部に29万人、後は名古屋と金沢に10万を上回る人が住んでいましが、その他は数万人程度の町しかありませんでした。それが今や、総人口約1億2600万人の内、東京、名古屋、関西の三大都市圏の人口で全体の50%を超えています。
明治維新以後、近代化の中で日本の人口は約4倍になり、それに応じ経済も成長してきました。しかし、同時に故郷を喪失してきたことが、大都市圏への人口集中からも読み取れます。勿論、都市部で暮らしそこを新たな故郷としている人もいるでしょう。しかし、都市か地方を問わず、大切なのは定住することです。そこで何代にも渡り暮らしていれば、そこに思い出ができます。又、地域の人々との繋がりも深まります。思い出と人の繋がりは家族とも共有することになりますから、家族との一体感も大きなものとなります。長期間同じ場所で家族と共に暮らすことが故郷意識を育む源になるのです。現代人の故郷喪失は定住できない生活様式がからくるものであり、その原因は戦後の急激な高度成長時代にあるのです。
江戸時代以前の日本
何代にも渡り同じ地域で暮らすには、生業が必要です。明治維新の頃は人口の約8割が農民です。土地が無ければ成り立たない仕事ですから、地域に密着し何代にも渡って暮らしてきたのは当然です。
江戸時代には東北地方を中心に冷害による飢饉に襲われ、人口の増加はほとんど無く停滞していたと言われています。今日、地球温暖化が問題視されていますが、幕末には地球規模で寒冷時代が終わり、気候が安定してきだしたとも言われています。また、農業技術の進歩や、養蚕の振興などにより農村部は豊かになり人口が増加に転じます。明治以後の殖産興業政策は、製造業の近代化大型化を促し、より多くの雇用を創出しました。これを賄うために、農家の次男坊三男坊が都市へと転出し、日本は都市で経済発展を遂げることになったのです。都市の経済成長は農村部の人口増加が有ればこそだったのです。農村部が貧しくて都会に出たというよりも、農村部が豊かになり人口が増えたことが都市への人口移動を可能にしたと言えるでしょう。
戦前は農村が中心
明治維新以降、日本は殖産興業政策を推し進めます。近代化には工業製品の輸入が必要ですが、その代金を支払うためには外貨を稼がねばなりません。当時、日本が海外に輸出できるのは生糸と茶などの農産物や昆布などの海産物が中心です。特に生糸は戦前の日本の輸出品一位の座を長く保持してきました。第一次産品で外貨を稼ぎ、機械や軍艦などの代金支払いに当ててきたのです。
戦前までは都市部の発展だけでなく、同時に農村部や海辺でも産業基盤がしっかりと確立していたのです。特に、都市部が戦争で破壊された終戦直後は、経済の中心は都市部ではなく農村部だったのです。
高度成長時代も目標は国土の均衡ある発展
昭和39年の東京オリンピックを契機に、首都圏のインフラ整備が一挙に進みます。東海道新幹線や高速道路の整備が進み、特に太平洋側ではこうしたインフラ整備に合わせて、産業集積が進みます。高速道路や新幹線の全国整備もこの時代に決定されます。
昭和37年、池田内閣で全国総合開発計画が策定され、地域の均衡ある発展を基本目標に掲げ、都市の過大化防止と地域格差是を基本課題とし、目標達成のためには工業の分散化が必要であり、各地域で拠点開発を行うという目標が掲げられました。
戦後の高度成長時代には既に都市部への人口集中が問題となり、農村部との均衡が問題となっていたのです。単に経済成長をさせるのでは無く、日本全体を如何に均衡ある発展をさせるかということが政治の課題だったのです。
次いで昭和44年佐藤内閣の下、新全国総合開発計画が策定されました。新幹線、高速道路等のネットワークを整備し、大規模プロジェクトを推進することにより、国土利用の偏在を是正し、過密過疎、地域格差を解消するということが掲げられました。目標年次は昭和60年でしたから、北陸新幹線も本来ならこの時期に完成していたのです。しかし、残念ながら、昭和52年に第3次全国総合開発計画に変更され大型プロジェクトは事実上棚上げされてしまいます。
オイルショックとバブル崩壊で成長神話崩壊
その原因は、ニクソンショックによるドル切り下げや第一次石油危機などにより経済が危機に陥ったことや、急速な経済成長の結果、地価が高騰し狂乱物価と言われたほどインフレが深刻化するなど、社会経済環境が悪化したことが挙げられます。
過大投資がインフレを招き、経済を毀損するのは事実です。インフラ整備への投資が悪いのではなく、経済の実態を見ながら経済を過熱化させずに節度ある投資をすれば良かったのです。しかし、何よりも新幹線の事業主体であった国鉄が毎年巨額の赤字を垂れ流し、事実上経営破綻したことが新幹線整備を遅らせた最大の原因です。
昭和62年、国鉄が事実上経営破綻し、国鉄は分割され民営化されました。そして新幹線の整備は国の予算により一般の公共事業枠の中で行われるようになります。
昭和の終わりから平成の始めは好景気が続きましたが、結局これはバブルだったため、その後の日本はその反動のため長期低迷が続きます。民間企業は生き残りを賭け人員を整理し事業を縮小していきます。バブルに浮かれた反省から清貧の思想が流行り、世の中全体が経済成長よりも債務整理を優先すべきという風潮に流されて行ったのです。こうしたことの結果、公共事業不要論が横行し、公共事業の予算は激減してしまいました。
公共事業費削減が新幹線開業の妨げ
その結果、新幹線の整備は中々進まず、昨年漸く北陸新幹線の東京・金沢間が開業しましたが、工事着工から26年かかっています。国鉄時代にでは、東海道新幹線は着工から5年、山陽新幹線でも8年で全線開業していますからその差は歴然です。整備新幹線は公共事業方式になりましたが、鉄道予算は極めて少ないのです。本年度の公共事業予算6兆円のうち1000億円しか有りません。そのうち新幹線は755億円でそれを北海道や北陸や九州の各新幹線に配分しているのでから、この調子なら私たちが生きているうちには北陸新幹線が京都まで来ることは有りません。北陸新幹線全線の早期開業には予算の大幅アップが欠かせません。
そもそも、現在着工している新幹線は採算性も認められているのですから、1日も早く全線開通させる方が理にかなっています。これは高速道路などの建設についても同じことが言えます。予算をつければ短期間で開業できるにも拘らず、それができないのは予算のシーリングがあるからです。
予算シーリングは臨機応変に考えるべし
財務省は来年度予算を作る際、各省庁から概算要求を受けた内容を査定して全体の予算を積み上げます。どの省庁も必要な予算を要求しますから、これを全部受けていたらキリが有りません。そこで、経済や財政の状況を考えた上で、毎年前年比何%プラスというような全体予算の骨格がつくられます。これがシーリングです。この仕組みは一般論としては正しいことです。しかし、現実は一般論では語れません。個別の具体的状況をしっかり認識して臨機応援に予算措置をすることが肝要です。
その中でも、公共事業費は、将来に対する投資ですから早く完成しなければ意味が有りません。そしてその財源は基本的に税金ではなく建設国債です。その事業がもたらす経済効果の結果、国全体の所得が大きくなり、将来の税収が増える、その将来の税金で国債を償還するということです。従って、将来の経済効果が期待できるものならばさっさと作るのが正解です。
全ての新幹線基本計画を実行すべし
私は、北陸新幹線の与党敦賀以西検討委員会の委員長を務めていますが、北陸新幹線だけで無く全国に新幹線のネットワークを築くべきだと主張し続けています。元々、昭和48年に全国で11の新幹線基の基本計画が決定しています。リニア中央新幹線もその中の一つです。(図①)
この計画が実現出来れば全国の各地域が新幹線で結ばれることになります。経済成長に寄与することは勿論のことですが、何よりもそれぞれの地域に住む人達にどれ程喜ばれることでしょう。
現在の新幹線は東京に接続する路線を中心に整備されてきました。その結果、東日本は比較的に充実した新幹線ネットワークを構築できましたが、西日本はまだまだです。四国や山陰、また新潟から東北の日本海側などは全く高速交通ネットワークの恩恵に預かっていません。 そして、新幹線ネットワークから取り残された地域では過疎が進んでいます。今年の参院選挙では鳥取と島根、徳島と高知が合区されたのはその象徴です。代表無くして課税無しと言われますが、一県一代表すら出せなくなっては民主主義の根幹を揺るがす事態です。
西日本での新幹線整備の遅れが、東京一極集中と地方衰退に拍車を掛けてるのは歴然たる事実です。地方創生という安倍内閣の看板政策を実現するためにも全国新幹線基本計画を1日も早く実現する必要があるのです。
実現には国家プロジェクトが必要
全ての新幹線基本計画を実現するにはかなりの国家予算が必要ですが、先ず何年で完成させるかという事を決める事です。また、どの新幹線基本計画から始めるかという優先順序を決める事も大事です。何れにせよ、先ず与党が実現に向け議論を始めることが必要です。
私が、北陸新幹線で舞鶴・学研・関空ルートを提案しているのは正にこのためなのです。舞鶴の意味は将来の山陰新幹線延伸のためです。学研都市は将来の中央リニア新幹線との接続のためです。そして関空は将来、和歌山から淡路島を通り四国新幹線に延伸するためです。(図②)
そうした構想を語ることが西日本全体で新幹線基本計画を実現するための世論を形成し、基本計画を国家プロジェクトに格上げすることになるからです。公共事業不要論が罷り通っていたこの20年の国論を変えねばならないのです。
今こそ故郷再生
これまで何度も述べてきました様にバブル後の規制緩和政策の行き過ぎが、東京一極集中を招き、地方の衰退をもたらしました。地方創生のためにもその是正が必要です。
しかし、もっと大切な事は、地方創生というより故郷を守るという当たり前の感覚を取り戻す事ではないでしょうか。
それにはまず我々政治家は選挙区では無く、故郷を思う心を持つべきです。それが政治の原点なのです。
樋のひと雫
羅生門の樋
今、南米では大きなうねりが起ころうとしているように感じます。2年ほど前から反米左派政権は退潮を始めました。農産物や地下資源の輸出に頼る工業生産手段を持たない国々にとって、最大のパトロンであるチャベスの死は、経済的な困窮の引き金でした。ブエノスアイレスに行くと街角に立つ「カサ・デ・カンビオ(両替屋)」の呼び込みの数は昨年より増えています。ペソ安は昨年より進んでおり、未だに左派政権の経済失政の重荷を負っています。また、ベネズエラの友人の話では、物価の高騰は相変わらずで、買おうにも物そのものがないという話です。チャベスの後継者を自認する現政権は、それでも往年の夢を未だに見ているかのように他国の経済支援を謳っています(実際はどうか分かりませんが)。圧倒的な人気を誇っていたボリビアのエボ政権も、4選目の大統領就任を目論見、多選を禁じた憲法の改定を行おうとしましたが、国民投票でNOを突き付けられました。あれだけ元気が良かった反米左派政権も、オイルマネーの瓦解がその退潮を速めているかのようです。
しかし、この変化は単に経済事情だけが原因でもなさそうです。その震源地はキューバです。今年3月のオバマ訪問は、キューバ国民だけでなく多くの反米政権下の民衆にも衝撃だったようです。それまでの経済開放で、何となく理解していたものが、映像で流れると改めて社会主義の終焉を感じたと友人は話してくれました。「あのキューバでさえ、社会主義を捨てざるを得なくなった。」「オバマが飛行機を降りてきたとき、キューバでなくなった。」と言っていた言葉が印象的でした。一片のニュースが、多くの民衆の意識にも変化をもたらせたようです。
さて、ボリビアではどうでしょう。各地で反米政権が求心力をなくしている中で、「反帝国主義学校(Escuela Antiimperialismo)」なるものを創設し、ペルーやエクアドル、ベネズエラなど5か国から軍人を募り教育するそうです。内容は余り公表されていませんが、文脈からすると米国から各国の主権を守るようなことが書かれていました。このような動きの中で、政権中枢の副大臣(総務、警察担当)が8月にデモ隊に殺されました。ラパスとオルロを結ぶ幹線道路を封鎖していた鉱山労働者と話し合うために出掛けたのですが、労働者に捕まり殺されたようです。元々、COBという鉱山労働者の組合は、現政権の有力な支持母体です。今まで政権も様々な融合処置を与えてきました。組合幹部とのボス交で話しは落ち着きましたが、政権のタガが緩み出したことを民衆の目に晒しました。かつて、実力で軍事政権を倒したCOBは、統制力も大したものでした。大規模なデモは行っても正面からの衝突は避けていました(政権や警察も遠慮をしていましたが)。
この殺人が意図的なものか、偶発的な事故なのかは分かりません。(未だ、情報が全て公表されている様には思われません。)しかし、今まで民衆の意識が理念や権威で繋がっていたものが、漂い始めた気がします。主義や理想と云ったものが、現実の前に色褪せたとき、人々の意識の漂流する先には何が見えてくるのか。近い将来にその答えが見えてくるのかもしれません。