お金には価値は無い
西脇知事・門川京都市長と共に松井孝治さんを応援いたします
こんなことを言えば誰もが何を言っているのか、と反論されるでしょう。確かにお金があれば、大概のものを買うことができます。そういう意味では何にでも交換する能力がお金にはあります。しかし、お金そのものには何の値打ちも有りません。金貨の時代には貴金属としての価値がありましたが、今の紙幣はその金貨に交換してもらえませんから、本来は無価値なのです。
お金は正式には日本銀行が発行する日本銀行券、日銀券です。かつては、日銀券を日銀に持っていけば同価の金と交換するとの記載がありました。これを兌換紙幣と言いますが、今は兌換紙幣を発行している国は有りません。
かつては、兌換紙幣ですから紙幣そのものが金と同じ価値を持っていたのですが、不換紙幣になったため、紙幣にはその価値を裏付けるものがないのです。お金に値打ちが無いというのはこのことです。ただ、法律により強制的な通用力が定められています。日本で経済的取引を行う場合には誰も受け取りを拒否できないため、あたかも値打ちが有るように見えるのですが、現実は経済的取引の決済の手段として国家が強制通用力を定めているだけで、紙幣そのものに価値があるわけでは無いのです。
現実の取引には銀行預金が使われる
紙幣は燃えればただの灰になり、保管も大変です。そこで現実の取引では、紙幣に代わって銀行預金が使われています。特に大口の取引では殆どが銀行預金の振替により行われています。最近では、クレジットカードやスマホによる支払いなどもありますが、最終的には全て銀行預金の振替により決済が行われています。
お金を銀行に預ければ、預金残高は増えます。しかし、その増えた分のお金が手許からなくなります。また、銀行から預金を引き出せば、銀行の残高は減りますが手許のお金はその分だけ増えます。このことから、お金と預金は同じものと言ってよいでしょう。
お金は本来無価値なものと言いましたが、預金はどうでしょうか。これもいきなりは信じられないことですが、お金と預金は同じもの、と考えれば、預金も本来は無価値なものということになります。
紙幣は日銀の負債、預金は銀行の負債
そもそも紙幣は、発行している日銀にとっては債務です。経済取引には日銀券を使うことが強制されているため、日銀は自ら発行した日銀券で何でも買うことができるのです。これを通貨発行権と言いますが、世界中の中央銀行が持っている特権です。具体的には、日銀は銀行が保有している資産を買い取り、その代金として日銀券を発行するのです。しかし現実には銀行券の発行ではなくて、銀行の預金口座に金額を書き込むことにより行われます。通貨発行をする度に日銀の資産は増えますが、同時に負債としての通貨発行額も増えます。この様に、日銀は元手となる資産がなくても、自由に通貨発行を行い資産を買うことができるのです。日銀は通貨発行権を行使することにより、世の中に流通する通貨の量を調整することができるのです。それに合わせて金利の調整などの金融政策を駆使して物価安定を使命としています。
また、銀行預金は、現金が預けられたものと思われがちです。確かに、現金を預ければ預金残高は増えます。しかし、現金と預金の合計は変わりません。預けた人にとっては現金が預金に変わっただけのことですから、その人の個人資産の量は変わりません。一方で、銀行にとっては預金を預けられると資産としての現金が増え、負債としての預金が増えることになります。預金は銀行にとって負債であるということが大事な事実です。日銀券を発行している日銀にとっても負債であったのと同じように、預金は銀行にとっては負債なのです。
銀行がお金を貸すから預金が増える
八幡市長選挙において川田翔子さんが維新候補を破り、見事に当選されました
銀行預金は銀行がお金を融資することにより発生する銀行の債務です。銀行がお金を融資する時には、まず返済がきちんとされるか、融資先の返済能力が評価されます。資産や所得などを総合的に評価して返済可能と判断すれば、融資先の銀行口座に預金が書き込まれることになります。決して預金というモノが動くのではありません。銀行にとっては、貸付金という資産の情報とその対価として銀行預金という負債の情報が記録されたに過ぎません。
融資を受けた人にとっては、銀行預金という資産が増えますが同時に同額の借入金という負債を背負うことになります。ここにもモノの移動はありません。銀行預金という資産と借入金という負債の情報が書き込まれたに過ぎません。この様に銀行は元手無しで、融資先に信用を与えることにより、銀行預金を生み出すのです。このことを信用創造と言いますが、英語ではマネークリエーション(通貨創造)と呼びます。銀行は預けられた預金の又貸しをしている訳ではありません。まさに無からお金を作り出しているのです。
このようにして、銀行は信用供与さえすれば、いくらでも貸出により預金の量を増やすことができます。しかし、貸し付けた融資が焦げ付いたりすれば預金は戻って来ません。また、お金を借りたいという人がいなければ、融資はできず、預金の量は増えません。これも大切な事実です。
日銀の仕事は何か
経済取引の大半を占める銀行同士の口座振替は、それぞれの銀行が日銀に持っている口座の振替により行われています。そのため全国の銀行は日銀にお金を預けておかなければなりません。これを準備預金と言います。準備預金は毎日の取引の決済に必要なものですが、基本的には金利は付きません。従って、銀行は準備預金にお金を置いておくよりも、利息の付く国債などで運用することを考えます。
従って、政府が国債を発行すると、銀行は基本的に手持ちの準備預金を国債に変えようとします。利息の付かない準備預金を保有しているより、国債を保有する方が得だからです。この結果、銀行の準備預金残高は少なくなり、逆に銀行の保有する国債残高が増えることになります。準備預金残高が少なくなると、日々の銀行間取引で必要な決済資金が少なくなります。もし手持ちの決済資金が足らなくなった場合には、他の銀行からお金を融通してもらう必要があります。この時に付く金利は一夜限り(オーバーナイトローン)の超短期の金利で、これが短期金利の指標となります。
また、長期の金利は、国債等が市場で売られるときに日銀が誘導する金利になるように買入れ調整をします。これが、現在では0から1%以下になるように設定されています。
限界があるのは通貨発行量ではなく、資源と供給力
参議院財政金融委員会で鈴木財務大臣に社会保険料の減額と消費税減税について質問しました(YouTube西田昌司チャンネルで公開しております)
日銀の通貨発行は原資を必要としていないため、その上限はありません。これが不換紙幣の特徴です。また、銀行の信用創造も元手なしで行われており、その上限も理屈の上では無いということがわかります。つまり、世の中に流通している紙幣も、預金も、その発行の上限は理屈の上では無い、これが事実なのです。しかし、だからといって、いくらでも通貨を発行したり、融資したりできるわけではありません。まず、日銀の通貨発行は日銀が銀行から資産を買い取ることにより行われています。また銀行の融資は貸付金と言う資産を取得することにより行われています。取得すべき資産がなければ負債である銀行券も銀行預金も増やすことはできないのです。
お金も預金も結局は何かを買うために使うモノです。将来の不安のリスクに備えるために貯めることも必要ですが、それも、結局は何かを買うための備えあってお金が有限でモノは無限にあると思っているからです。
平時は確かにその通りです。しかし、有事になればどうでしょうか。かつて、大東亜戦争の敗戦によりハイパーインフレが起きました。その原因は戦時中に国債を発行し過ぎたからだと教えられてきました。しかし、国債を発行したのは戦時中で、インフレは占領中のことです。国債発行で通貨量が増えたのも事実ですが、占領中にインフレになったのは明らかに物不足が起因しています。
戦時中と占領中の決定的相違点は、物不足、供給力不足です。確かに、戦時中も物不足でした。しかし、それにも増して占領中は敗戦により外地からの資源の輸入が完全に途絶え、更に空襲により生産拠点が壊滅的に破壊されて圧倒的な物不足が起きました。また、終戦による開放感が需要を伸ばしたことも空前のインフレの原因でしょう。
財務省は誤りを認めるべきだ
以上の事実を元に、もう一度日本の現状を見てみましょう。日本に足りないのは、お金ではありません。お金を生み出す需要なのです。バブル崩壊後、民間のコストカットから身を切る改革に至るまで徹底的な需要抑制策が官民挙げて行われてきました。そのため銀行の貸出しは減り、内部留保ばかりが増えました。その結果、投資不足になり、デフレを生み出しました。それにより政府は税収不足に陥り、赤字国債を発行せざるを得なくなりました。本来なら、政府が積極的に投資拡大をして需要を増やすべきところを逆に緊縮財政を行ってきました。その原因は、お金の本質を知らずに誤った政策を行なってきたからです。
需要を抑制し過ぎたために、日本はデフレになってしまったのです。需要があるから、銀行の貸し出しが増え、投資や消費が増え、経済が拡大するのです。需要の創造とそれを実現するための正しい財政と金融の政策が必要なのです。お金はいくらでも刷れますが、そのためには需要が必要なのです。また、需要が拡大してもそれを満たすだけの生産力がなければ、終戦後のようなインフレになってしまいます。
財務省はお金の本質を見誤り、その裏にある需要がお金を生み出す仕組みを無視してしまったのです。税による財源にこだわり過ぎたため、国民の要望の高いインフラ整備など、生産力向上のための投資や、子育てや教育支援など、次世代に対する投資が否定されました。その結果、日本は少子化に陥り、肝心の生産力にも支障を来たす事態になっています。真のデフレ脱却のためには今こそ、人と将来への投資を増やすべきなのです。
瓦の独り言
「干支と方角 面舵いっぱい!」
羅城門の瓦
甲(きのえ)辰(たつ)年。新年あけましておめでとうございます。
お正月には干支の話がつきものですが、干支と方角について一言。
昨年の12月に京都文化博物館で、「どんぶらこん」という面白い展示会がありました。
おとぎ話「桃太郎」をアジアの絵本作家に描いていただいた展覧会でした。その時に桃太郎の船に必ず「猿・きじ・犬」が同乗していたのです。鬼退治に出かけるのになぜお供が「猿・きじ・犬」なのでしょうか?おとぎ話を子供にしているときに「桃太郎の家来はなぜ猿・きじ・犬なの?」と聞かれて、若いお父さんやお母さんはどうこたえるのでしょうか。インターネットなどで調べれば答えは出てきますが、そもそも鬼退治の鬼はどの方角からやってくるのでしょうか?京都の人であれば「それは鬼門から来るのでは」との答え。その鬼門は「丑(うし)・寅(とら)」の方角です。(ですから節分の鬼は牛の角を生やし、虎のパンツをはいているのです)その丑寅の反対側にある方角は「申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)」なので、桃太郎が鬼退治に連れて行った家来は「猿・きじ・犬」なのです。
この様に日本古来、干支と方角は切っても切れない関係にあり、日常生活に浸透しています。例えば、船の航海でよく使う「面舵いっぱい!取舵いっぱい!」という言葉。図の羅針盤を見ていただくと、船頭が南側から北に向かって右旋回(東の卯の方向へ旋回)することを面舵といいます。昔は「卯舵」と言っていたが発音が訛って「面舵」になったとか。左旋回(西の酉の方向へ旋回)することを取舵といいます。「酉舵」の発音はそのままで「取舵」になったとか。また、船舶のタラップ(出入口)はおおよそ左側についており(航空機も)、出向するときは右方向へ大きく旋回していきます。これを面舵いっぱいといいます。
さて、来る2月4日の市長選挙には、われらが国政にお送りしている西田昌司参議院議員を中心に「松井孝治氏」を推薦されております。
さあ! 「突き抜ける世界都市京都」に向けて、面舵いっぱい!