6 月25日に行われた衆議院選挙は、全国的には自民党はじめ連立与党の退潮、民主党の躍進という様にマスコミでは報道されました。しかし、我々の京都においては、小選挙区で2区以外の五つの選挙区で勝利し、また大阪では、小選挙区での当選者は倍増するなど、一概に自民党退潮という様子ではなかったと思います。しかしそれでは、自民党はじめ連立与党が勝利したのかと言えば、やはりそれは否としか言えません。それでは、民主党が勝利したのかと言えば、それも違うと思うのです。では、今回の総選挙の結果をどのように捉えればよいのでしょうか。
今回の選挙では、選挙戦中盤の予想では自民党の勝利を予想する報道がなされました。そして、終盤になってこれに対する逆アナウンス効果で、結局自民党が議席を減らすという、2年前の参議院選挙を彷彿させるような結果でした。これは、森総理大臣のいわゆる「神の国」発言に対する報道をはじめ、最近のマスコミに見られる過剰報道の影響が出たことは否定できないでしょう。
また、公明党との連立に対するアレルギー反応が出たとする意見もあります。勿論その影響も多少あるでしょう。しかし、京都の選挙区を見ていると、結果としては自民党にとっては、マイナスよりむしろプラスのほうに働いたと言えるのではないでしょうか。また、公明党との連立については、政党人としては私は、当然のこと単独で政権を目指すべきであると思います。しかし、参議院での過半数割れの現実を考えると、現実の選択として止むを得ないと思っています。むしろ、かつての新進党時代の連立政権のほうが、その中枢に公明党が完全に一体化していたのですから、当時のマスコミの態度と今回のそれを批判するマスコミの姿勢は冷静に考えれば、かなり矛盾するものです。
しかし良く考えてみれば、マスコミの姿勢はなにも変わっていないのです。彼らの姿勢は公明党・創価学会に対して反旗を翻しているというより、一貫して反自民の旗を振っているということなのです。だから、細川政権や羽田政権の時は反自民の政府にエールを送り、自公保の時は反自民の立場から非難しなければならないのです。彼らにすれば与党の場合は勿論、野党であっても自民党というのは、政・財・官を巻き込んだ権力装置そのもので、この権力に対する対抗装置としてマスコミの使命があるとでも思っているのでしょう。
結局、戦後の日本の社会では、常に「権力対反権力」という、非常に単純な構図の中でしか政治が語られていないということなのです。理念や理想が語られず、権力対反権力という構図だけで、選挙が毎回行われてきているということなのです。
その結果、政治家が語る言葉は紋切り型になってしまったのです。野党やマスコミは与党の政治家の言葉尻を捕まえ、揚げ足を取るようなことであっても、与党を徹底的に非難をします。そして、彼らが示す大衆受けを狙った奇抜なアイデアを、政策として示すのです。その時々の与党の政策に対して、対抗手段として提案しているに過ぎない俄仕立てのものですから、当然の結果、矛盾だらけのお粗末なものになってしまいます。そこを与党に突っ込まれるとたちどころに馬脚が現れてしまうのです。こうしたことは今回の選挙に限らず、戦後ずっと続いてきたことです。京都における自共対決などその典型でしょう。全国的には、自民党対社会党の対決として行われてきたのです。
しかし、今まではこの対決は最初から勝負がついていたのです。というのも、自民党に対する野党はこれまでは社会党や共産党、公明党といった特定の指示基盤の上に立つ組織政党、イデオロギー政党、宗教政党しか選択肢が無かったからです。反自民の声も、結局はそうした選択肢しかない状況の中では、形になって現れることが少なかったのです。いわゆる無党派の人にとっては、旧来の野党では受け皿たり得ず、むしろ自民党の方がその受け皿になっていたのです。つまり、国民政党として幅広く国民に支持される基盤を持つのは、自民党しか無かったということが自民党を助けてきたのです。
ところが、今はもうそんな状況では無くなっているのです。民主党の実態はその半分が旧社会党出身者で占められ、支持基盤も連合系の労働組合等がその中心をなしていることも事実です。しかし、残り半分は、いわゆる保守中道系の方々です。政党としての中身は非常にあやふやで、選挙互助会的な性格は否定できないのも事実ですが、あやふやであっても、そのウイングが広いということも事実です。かつて、自民党自身が自分たちのウイングの広さが身上であることを自慢していました。そういう意味では、民主党も同じような様相をしているのです。勿論民主党と自民党とではその実績も実態も随分違いますが、少なくとも有権者にとっては、表面上はイデオロギー政党の姿が見えなくなった民主党は、自民党に代わり得る国民政党の資格有りと見えつつあるのではないでしょうか。
幸いにして、森総理の失言に対する、鳩山代表らの執拗な発言があまりにも低レベルであったため、かえってその不寛容さが、この政党の懐の狭さを自ら証明することになってしまいました。その結果、国民の信頼感を獲得できなかったため、この程度の敗北で自民党はすんだのです。
このように自民党を取り巻く政治状況は、10年前とは全く変わっているのです。にもかかわらず、自民党が訴えてきたことは10年前と何も変わりがないのです。野党の無責任と無能力をいくら訴えていても、イデオロギー政党の共産党批判としては、その言葉は効いていても、民主党批判としてはその言葉は意味が無いのです。むしろ、その言葉はそのまま自民党に返ってくるのです。また、今回の選挙では、民主党=若者の党、自民党=年寄りの党というイメージが非常に強かったと思います。私は別に若者に迎合する必要は無いと思っていますし、経験実績を踏まえた人生の先輩方の知恵を活かすことの大切さも知っているつもりです。しかし、あまりに旧来の体制ばかりがなんの議論も無しに踏襲されてしまい、結果として、世の中の変化について行けなくなっているところがあるのではないかと思っています。そうした体質は決して保守ではなく、単なる頑迷固陋(頭が固いだけ)であり、評価できるものではありません。そうした体質が結果として、若者の受け皿に自民党がなり得ず、民主党に票を奪われた大きな原因でしょう。
国民が本当に聞きたかったのは、野党批判ばかりでなく、これからの日本の社会に対するもっと明確なビジョンなのです。勿論、各党ともそれに類したことは言っていたのかもしれません。しかしそれは、表面的な問題を述べていたに過ぎず、本質的な問題は少しも語られていませんでした。
例えば、頻発する17歳の少年の殺人事件等、この社会が完全に崩壊の危機にあるということは誰の目にも明らかです。これに対して、一体いかなる手段で対処するのかとうことになれば、各党とも教育を改革しますといっているだけで具体的なことは全く見えてこなかったのではありませんか。敢えていうなら、自民党が少年法の見直しや、徳育の重視ということを言うのに対して、民主党等らは刑罰を重くしても問題は解決しない、徳育は子どもを画一化するなど、と自民党に対して批判しました。その一方で、子どもにもっと人権教育や命の尊さを教えることが必要なのだと、相も変わらず、戦後教育そのものを守るという旧社会党体質を浮き彫りにしたにすぎません。しかし、これとて少しも本質論にはなっていません。
私に言わせれば、この問題の本質は、教育の原点は何かということがまず問われなければならないと思うのです。そういう立場から、戦後教育が結局GHQの指導の下に権利ばかりが重視され、義務があまりにも欠けてきたこと、また、国民教育としての義務教育にもかかわらず、日本人としての当然の常識やモラルや伝統といった、言わば、時代を超えた叡智の積み重ねが全くといってよいほど学校の中で教えられずにきたという戦後教育の根本的欠陥等を明らかにすることが大切です。その上で、戦後社会そのものを問い直し、次の時代にはこうした敗戦による負の遺産を一掃するということを国民に示すことが、保守政党としての自民党の務めだと思うのです。
こうした本質論なしに、表面上の課題のみを訴え、互いに批難し合っているのでは、子どもの喧嘩に等しく国民の信を得ることは出来ません。結局、今回の選挙はこうした観点から見れば、まさに全ての政党が国民から厳しいお灸が据えられたということです。「もっと本当のことを、本質を示し議論せよ。」これが「神の声」ではなかったのかと私は思っています。そして当然のことながら、その責務は自民党が一番重いと思うのです。