第4回西田昌司大演説会要旨 H18.5.27
第48号
2006年07月15日発行
京都府議会議員
第4回西田昌司大演説会要旨 H18.5.27
ライブドアの堀江貴文被告と村上ファンドの村上世彰容疑者が逮捕されました。ともに東大出身で六本木ヒルズに住み、勝ち組の象徴としてマスコミにも頻繁に登場し、まさに、時代の寵児としてもてはやされていた人物でした。彼らの容疑は堀江被告が粉飾決算、村上容疑者はインサイダー取引と、ともに株式の売買に関して不正を働いたということです。村上容疑者は自らその罪を認めていますが、堀江被告は認めておらず、裁判の結果はどうなるか分かりません。しかし、判決がどうであれ、彼らの言動は決して自慢できるものではありません。彼らは、「金で買えないものはない」「お金儲けがそんなに悪いことですか」と言います。確かに、お金儲けは罪ではありません。しかし、それは決して人生の目的ではなく手段に過ぎないのです。人生を賭ける価値ある目的や目標のために必要な手段ではあっても、それ自体が目的ではないはずなのです。お金は大切なものですが、そのお金を何のために使うのかということが、彼らは分かっていないということなのです。
これは、まさに戦後教育の問題点を象徴しています。彼らは両者とも東大出身で、日本の最高学府に学んだにもかかわらず、彼らの口から人生の価値や目的は何かと言うことは、ついぞ語られなかったのです。教育とは、何が大切なことかを子供に教えることですが、戦後教育ではその肝心なことを何一つ教えてこなかったのではないでしょうか。だから、彼らはお金以外の価値を語ることが出来なかったのです。
テストでいい点を取って、東大へ行く。そして、一流企業や官庁へ就職し、お金と高い地位を得る。しかし、そのお金と高い地位は一体何のために使うのか。彼らの頭の中にはそれが抜けていたと言うことです。彼らの言葉の中で『お金』を『点数』に置き換えるとその人生観がよく見えます。「良い点数をとればどんな大学でも行ける」「良い点数を取って何が悪いのですか」
この堀江被告と与党との関係を国会で激しく追求した民主党ではありましたが、その根拠としていた堀江被告のメールとされたものが、実は全くの作り物であったことが発覚しました。その結果、張本人の永田議員が衆議院議員を辞職、民主党代表の前原議員は代表を辞任するという羽目に陥りました。この二人も東大、京大という受験エリートですが、与党を追求したいという功を焦った結果、国会の本質を見失ってしまったという点で先の事件とよく似ています。
国会は国家の最高決議機関、国の根幹を議論すべき場です。与党や政府に不正があればそれを追求するのは当然ですが、それ以上に国のあり方そのものについてもっと本質的な議論をすべきではなかったでしょうか。今でこそ堀江被告や村上容疑者に対して、厳しい批判の言葉が浴びせられていますが、以前は逆に彼らを時代の寵児として歓迎する空気が非常に強く、そのため、彼らを批判するものは与野党とも殆どいなかったのが現実です。むしろ、あやかりたかったというのが本音でしょう。自民党は本当にあやかろうとしたのですから、その責任を追及されるのは当然です。しかし、民主党も同じ穴の狢だと国民は感じているのではないでしょうか。
今度の偽メール事件はそのことを湖塗するために、功を焦り自滅したという気がしてなりません。また、この人達は、マスコミの脚光を浴びることが国会議員の仕事と勘違いしているではないでしょうか。マスコミに注目されれば、知名度が上がり、選挙で非常に有利になる。こうした短絡的思考がその背景にあったのは間違いないでしょう。これも国会議員になって何をするのかという本質を見失い、国会議員になるためにはマスコミを利用することが当然、必要だという手段ばかりに気を取られた結果がもたらしたものではないでしょうか。
今国会では見送りになりましたが、教育基本法の改正が大きな政治課題になっています。確かに、親が子を殺したり、子が親を殺したりというような報道を見るにつけ、今の教育はおかしいのではないかと誰もが感じているでしょう。また、先に述べたように、東大を出ても、まともな人間になれないと言う事実が、教育の崩壊を物語っています。そこで、教育の根幹である教育基本法の改正が必要だということになるのでしょう。しかし、聞こえてくるのは国を愛する態度、いや心だという議論ばかりで、ことの本質はなかなか見えてきません。
教育基本法を論ずるには先ず、それが出来た経緯を知る必要があります。教育基本法が出来たのは、昭和22年3月31日のことで、即日施行されました。その前年に明治憲法が改正され、現行憲法が制定されていますが、教育基本法はこの憲法の精神を実現するために作られたのです。その前文にはこのように書かれています。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。中略 ここに、日本国憲法 の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」では、憲法はどういう経緯で作られたのでしょうか。
現行憲法が制定されたのは昭和21年11月3日のことです。憲法記念日は5月3日ですが、これはその半年後から施行したためで、この日には本来意味がありません。あるのは11月3日の方です。11月3日と言えば文化の日ですが、元は明治節、つまり明治天皇のお誕生日です。その日に明治憲法を葬り去った訳ですから、憲法の制定は非常に政治的意味合いが強い、ということが伺い知れると思います。
日本は、サンフランシスコ講和条約の発効により独立を果たすのですが、それは、昭和27年4月28日のことです。従って、憲法も教育基本法も日本に主権がない時代に制定されているのです。確かに、両法とも国会に上程され可決されたため、形式的には国民が制定したという形式をとっています。しかし、現実は、日本人の意思とは無関係に、占領軍の意思によって作られたことは明確な事実です。憲法を11月3日に制定したということはそのことを象徴しているのです。
では、占領していたアメリカは、当時どのようなことを考えていたのでしょうか。それは、日本の軍事的解体と精神的解体であったと言われています。つまり、二度とアメリカに対して弓を引かせない、それが占領目的であったのです。この占領目標を担保するために作られたのが憲法であり、教育基本法であったいうことを知っておく必要があります。
憲法前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と宣言させ、9条では戦争を放棄し、軍備及び交戦権の否認を誓わせたのはそのためなのです。こうしたアメリカの占領方針にのっとり、教育基本法が制定されたのです。
しかし、意外なことに、教育基本法を読んでみても、アメリカが占領をうまく行うための言葉は何も見あたりません。むしろ、「個人の尊厳」「真理と平和」「人格の完成」など、どれもうなづけるものばかりなのです。確かに、これらの言葉はどれも大切なものです。近代国家にはどれも必要とされているものばかりです。そういう意味では、万国共通の価値観と言えるかも知れません。しかし、そこには日本の文化や伝統に根ざす言葉は何一つ書いてないのです。これでは、国際人は養成できても、日本人を養成することはでないのではないでしょうか。まさに、これこそ占領政策の目指したものであり、教育基本法の問題点なのです。
教育の本質は、日本人としての心を子供に伝えることです。江戸時代は、寺子屋で論語が、戦前は、学校で教育勅語が、日本人の伝統的価値観や徳目を伝えるため教えられてきました。しかし、戦後はこうした伝統的価値観は一切排除され、学校では教えなくなってしまったのです。
その結果、日本人はどうなってしまったのでしょう。歴史を知らず、日本人としての心も無くし、国の自立など考えもしない、そんな人物ばかりを生み出してきたのです。愛国心は勿論大切なことですが、それは、歴史や伝統を知れば当然芽生えるものではないでしょうか。従って、日本人としての歴史観や伝統的価値観や徳目を教えることをタブーにしていることの方が、より根本的問題なのです。
このように、現代の日本にのしかかる問題の多くは、戦後の占領施策が今なお続いていることが根本的原因なのです。しかし、残念ながら、その事実が国民に正しく伝わっていないのです。それは、アメリカが占領中に命じたものはすべて民主化政策として国民に伝えられ、こうした事実は、全く知らされなかったことが原因です。しかし、その後アメリカの公文書が公開されるにつれ、こうした事実が明らかになってきています。占領中は事実を報じることが禁止されていましたが、現在はそのような規制は何もありません。にもかかわらず、こうした事実はまだまだ国民に浸透していません。そして、その事実を知らずに、様々な議論がされています。しかし、それでは、根本的に問題を解決できるはずがないのです。
私は、今年、府議会議員になって17年目を迎えていますが、この間、一貫して訴えてきたのは正にこのことです。残念ながら、私の指摘してきた問題は一向に解決の兆しが見えません。しかし、だからこそ、私は訴え続けなければならないのです。それが、私の使命であり、真の政治改革であると思うのです。
この文章は、大演説会の講演を要約し、加筆修正したものです。
今回も再びボリビアからの報告です。昨年末,エボ・モラーレスが南米では初めて先住民から大統領に選出されました。その後,チリやペルーでも大統領選が行われ,南米全体としては反米・社会主義回帰への気運が高まっていると言われています。この中心人物がベネズエラのチャベス大統領で,キューバのフェデル・カストロと組んで米国に対する対抗軸を形成しようとしています。我がボリビアもこの軸の一翼を担うようです。
エボ政権は天然資源の国有化に乗り出し,コカ栽培の「自由化」を推し進めようとしています。このように書くと何処かの国のように麻薬を産業化するのかと思われるかもしれませんが,ボリビアやペルーのようなアンデス高地の民族には元々コカのお茶(マテ・デ・コカ)を飲んだり,仕事の際に噛む習慣があります。またお祭りや占いなど古くからの習俗の中に深く溶け込んでもいます。言わばアンデス文化の要素と言っても良いでしょう。(コカ茶を飲んでも習慣性や覚醒作用はありません。むしろ高山病の対処療法として必要なものです。しかし,コカを生成しコカイナにするとこれは明らかに麻薬の原料ですが。)さて,日本の某新聞が言ったように,此処南米では本当に社会主義の再築が行われるのでしょうか。
ボリビアでも一見するとそのようにも見えます。米国の「コカ・ゼロ化政策」に対抗する形で先住民の文化擁護の旗を降ろしていませんし,米国との貿易協定に背を向けるように,ベネズエラ・キューバと三国で貿易協定を結びました。しかし,天然資源の国有化に見られる多くの国民の願いは「自分達の資源は自分達のために使いたい」と言うものです。エボ政権も基本的にはこの考え方でしょう。一部の白人国家を除いて南米の多くの先住民は,スペインから独立した後も旧態依然とした植民地経済システムの呪縛の中にいます。この収奪から開放されたいと言うのが本当のところだと思います。
今回のボリビアの社会主義回帰への動きも,底流には「descolonizacion」という考え方があります。これは「脱植民地主義」とでも訳するのでしょうか。アンデス文化が持っているコスモポリタンの考え方を重視し,経済的にも文化的にも今までの植民地主義的な有様からの脱却を目指しています。中央省庁での機構改革や人事の一新を見ていると少し性急な気もしますが,傍目には後に戻れないという悲壮感さえ感じられます。「寄らば大樹の陰」という思考から脱却し,自分達の手で改革しようという意気込みは伝わってきます。
世界が米国一極集中型の動きをする中で,今ボリビアは自分の足でアンデスの大地に立とうとしています。そのためには「descolonizacion」が掛け声だけでなく,具体的な方法論として民衆の前に姿を現すことが必要です。日本では暑い夏を迎えるでしょうが,此処南米ではかってなかった規模と速度で世の中が動いています。ひょっとしたら,欧州でベルリンの壁が崩れたような変革が静かに進行しているのかも知れません。ボリビアは現在史上最も暑い季節が訪れようとしています。