謹 賀 新 年
本年もよろしくお願い致します
第50号
2007年01月01日発行
京都府議会議員
謹 賀 新 年
本年もよろしくお願い致します
教育基本法が改定されました。昨今のいじめやそれによる自殺、また親が我が子を虐待し死亡させるなど、日本の教育に問題があるのは誰の目にも明らかです。従って、その大本になっている教育基本法が改正されるのは当然のことです。 何故、教育基本法を改正しなければならないのかということについて、自民党のホームページには次のように書いてあります。
『連合国占領下で制定された教育基本法はGHQの影響を受けているといわれています。我が国の伝統や文化に根ざした真の日本人の育成のため、教育基本法の改正は、憲法改正と並んで自民党の結党(昭和30年)以来の悲願でした。
昭和22年の制定以来一度も改正されていません。現在までの約60年間に、教育基本法が前提としていた経済社会や国民生活の状況が、大きく変わりました。教育水準が向上し、生活が豊かになる一方、都市化や少子高齢化の進展など、教育を取り巻く環境は大きく変わりました。
また、近年、子どものモラルや学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の低下など教育全般に様々な問題が指摘されており、若者の雇用問題も深刻化しています。
更に、戦後社会や教育現場においては、個性の尊重や個人の自由が強調される一方、規律や責任、他人との協調、社会への貢献など基本的な道徳観念や「公共の精神」が、ややもすれば軽んじられてきました。
その結果、ライブドアの決算粉飾事件や耐震偽装建築問題に代表される拝金主義やルール無視の自己中心主義が、日本社会や日本人の意識の中に根深くはびこり、日本の将来を危うくする事態に陥っています。特に人口減少社会の進行、アジア諸国の台頭・発展などを鑑みれば、こうした問題に一刻も早く手を打つことが、我が国の存立のための喫緊の課題といえます。
こうした問題の根を断ち切り、我が国の社会や日本人が真に拠るべき教育を確立するためには、教育の根本にさかのぼった改革が必要です。このため、教育の根本法である教育基本法を改正し、わが国の伝統や文化に拠りつつ、今の時代にふさわしい教育の基本を確立し、これに基づき教育改革を進めていくことが、今、求められています。』
以上の理由により教育基本法は改正されたのです。私もこれには当然賛成ですし、教育基本法の改正により、教育が再生されることを大いに期待するものです。
学校では、いじめによる自殺などの事件が起きるたびに全校集会がなされます。そして、校長先生が、命が如何にかけがえのないものか、命が如何に大切なものかということを、再三にわたり生徒に諭しておられる様子がテレビや新聞などのマスコミを通じて報じられます。私は、こうしたニュースを見るにつけ、戦後教育の限界を感じていました。何故なら命の尊さを教えるだけでは子供達は救えないと思うからです。
確かに、命はかけがえのない大切なものです。しかし、本当に教えなくてはならないものは、その大切でかけがえのない命を何のために使うかではないでしょうか。そのためには、命より大切なものがあるということを教えることが必要です。ところが、戦後教育では、命こそが大切だとしか教えてきませんでした。自分の命が何よりも一番大切だと教えられた結果、利己主義が蔓延することになったのではないでしょうか。
しかし、現実の社会はそのような考え方では成り立ちません。事実、私たちが今ここにいるのも我々に両親がいて、その両親が自分の命に代えても、との思いで私たちを育ててくれたからに他ありません。また、時として、友人が身を挺して自分を守ってくれたこともあったはずです。そして、何よりも先人が我が身を捨てても、次代の子孫を守ろうとしてくださった尊い行為の延長線上にこの国があるのではないでしょうか。正に社会はお互いが守り合い支え合うことにより成り立っているものであり、そうした命の積み重ねの上に国があるのです。
ところが、戦後社会においてはこの当たり前のことがタブーになってしまいました。先の大戦により三百万人を超える日本人が命を落としました。特に、東京や大阪の大空襲や広島・長崎への原爆投下により、一瞬で何十万人もの無辜の民の命が失われました。これは日本人にとって忘れられない恐怖体験であり、日本人の精神の上に大きな傷を与えたことも無理からぬことです。その結果として生命至上主義=平和主義として日本人に受け入れられてきたのでしょう。
いじめや虐待が行われる度、道徳教育の重要性が言われますが、子供達に教えるべき道や徳とはどのようなものを言うのでしょう。私はその中で最も尊いものは、他の人が生きるために自分の命を犠牲にする行為だと思っています。友人のためであったり、家族のためであったり社会や国のためであったり様々なケースがありますが、それらは、古今東西を問わず具体的な物語や歴史として後世に伝えられてきたはずです。従って、どの国でも徳育において最も重要なのはその国や民族の歴史・物語を教えてきたはずです。
ところが、戦後社会ではこうした当たり前のことがタブーになってしまったのです。敗戦のトラウマ(心の傷)と歴史観の喪失により、先人が何のために戦ったのか、何のために死んでいったのかという先の大戦の大義を日本人は忘れ、戦争の恐怖の記憶ばかりが強調された結果、生命至上主義に陥ってしまったのです。そして、民族の歴史や物語は忘れ去られてしまいました。
むやみに生命を奪ったり、すぐに武力に訴えたりする様な野蛮な行為には、私はもちろん反対です。しかし、単なる生命至上主義に陥ってしまっては家族や友人、社会や国を誰も守ることが出来なくなり、その結果、自分自身の存在をも否定してしまうことになるのではないでしょうか。
また、生命をかけるものとして、時として美や芸術、職業ということもあるでしょう。使命という言葉があるように、自らの生命を何のために使うか、それを見つけることが生きるということであり、それを教えることが徳育なのです。つまり、命を超える価値があることを教えることが徳育なのです。
しかし残念ながら、自分の命こそが大切だという生命至上主義に陥ってしまった結果、命は守るべきもので、かけるべきものではなくなってしまいました。その結果、家族や友人、社会や国を守る人はどこにもいなくなってしまったのです。徳育という言葉はあっても、それを具体的に教える言葉をなくした結果、この国から徳は消失してしまったのです。これが今日の教育における最大の問題ではないでしょうか。さらに問題なのは、この事実を日本人が直視しなかったことです。むしろそのことを正当化させる生命至上主義という理屈を正しいものと思い込んできたのです。しかし、それは所詮、屁理屈でしかありません。「人ひとりの命は地球より重い」などというのはその典型です。よく考えてみれば、これほど尊大で自己中心的な発想はありません。徳育をおこなうためには、こうした戦後教育の実態をまず直視することが必要なのです。
真の徳育を行うためには、生命至上主義から脱却しなければなりません。しかし、これは法律ではなくて価値観、考え方の問題です。教育基本法を改正したからといって直ちに解決でき得るものではありません。日本人ひとりひとりが戦後教育の根本的問題点を知り、その呪縛から抜け出さない限り解決の方法はないのです。そのために、私はこれからも戦後の占領時代に作られた様々な法律、政策、ものの考え方などの問題点を皆様に伝えていきたいと思います。これからも、ご支援をよろしくお願い申し上げます。