わが国は、明治維新以来、欧米の列強に一日でも早く追いつくように、地方分権的な幕藩体制から中央集権的な明治政府を作り上げてきました。こうした方式は、大東亜戦争、そして敗戦と続くのですが、戦後のアメリカ軍の占領時代に地方自治法がつくられ、官選知事の時代から選挙で選ぶという方法に変えられました。しかし、中央政府が様々な形で、地方自治体に指導監督することには変化がありませんでした。それは戦後の復興という、なによりも優先すべき課題の表現のためには中央集権的な体制の方が有効とされたからです。しかし、今や飽食の時代を迎え、豊かさの基準も変わってきました。多様な価値観を大切にし、住民のニーズに的確にそして即座に対応するためには、中央集権より地方分権型社会の方が適しているという考えから、今日、地方分権という言葉が盛んに言われるようになりました。
この考え方は、消費者の求めに応じて、なにもかも市場競争原理によって配分すればよいとする規制緩和の議論と軌を一にしています。両者ともに共通しているのは、住民を消費者と同じ尺度で捕らえていることです。望みのままにやすくて良い品をいつまでもどこでも手に入れることが消費者の利益を守ることになるのと同じように、納税者の納めた税金を効率よく運用して、住民の望みのままの行政サービスを行うことが自治体の役割だとする考え方です。つまり中央集権という規制を緩和して、住民と一番身近なところにいる自治体に財源と権限を渡すことによって、税金の効率的運用を図ろうとするものです。
確かにこうしたことは、財政構造改革を図る上でも非常に重要な考え方であります。しかし、この考え方の一番の問題点は、住民は税金さえ納めれば、後は役人や政治家にその効率的運用とサービスの向上を任せておけばよいとするところです。これは、納税者はお客さん、自治体はサービス産業という考え方であり、消費者と事業者との関係をそのまま地方自治体に当てはめたものです。この考え方では行き着く先は、行政サービスもすべて民営化して行かざるを得なくなります。そして、お客である納税者は税金さえ払っておけば、後は行政に対して要求だけを突きつけておけばよいということになります。これでは、自らのふるさとを自らが納めるという自治意識はみじんも育てることにはなりません。
大切なことは、中央集権であろうが、地方分権であろうが自分の国やふるさとは自分が守り育てて行かねばならないという一人一人の気概ではないでしょうか。今のような、住民の自治意識を育てない行政の効率化だけでは、中央と地方の役人の権限のぶんどり合戦にしかすぎなくなります。このままでは、「地方分権論は、五右衛門風呂と同じで上ばかり熱く中は冷えたまま」といわれても仕方がありません。
それでは、地方自治の確立のためにはなにが一番必要なのでしょうか。
一つは、教育の問題です。昔は郷学と言われるように、自分の住む地域や街の歴史、経済、人としての生き方を考える学問が盛んでした。今日では生涯学習や学校教育で、地域社会のためになにをすべきか、誇りやボランティア精神を共に学ぶことが必要です。もう一つは、新しい経済・地域に根ざした産業の育成です。子供達が出て行かなくても生活できる職業の多様化と、地方の足腰を強めるための地方独自の産業基盤の創出です。
この二つが地方自治のためには絶対に必要なことではないでしょうか。今日の地方分権議論は、知事や市長がまず権限、財源を譲ってくれといっているばかりで、肝心の住民の声というのは殆どあがっておりません。自治意識の向上のため、特に私は、郷学の振興に代表される教育の問題をもっと腰を据えて考えないと地方自治どころか日本の国としての自治もできなくなると思うのです。そして、このことを訴え共に考え実行するのが、、住民の代表たる議員の仕事だと思うのです。
福祉のあり方を考える
去る8月28日、西田昌司議員がじゅらく共同作業所に視察に参りました。この作業所は社団法人京都市身体障害児者父母の会連合会が運営する民間の施設です。共同作業というのは障害者が集まって共同で事業をするということが建前です。しかし、実際にはこの作業所のように重度の障害のために全く仕事ができず、作業者と言うよりデイケアセンターとしての役割を果たしているところも少なくありません。しかし、その運営については、国の制度の隙間にあるために、非常に厳しい財政上を余儀なくされています。こうした状況を一人でも多くの方に知っていただくために父母の会と西田議員との間の往復書簡を紹介いたします。
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西田昌司議員殿
先日は先日はお忙しい中「じゅらく共同作業所」を見学していただき、また保護者や職員の生の声を長時間に亘り傾聴して頂き関係者一同大変感謝しております。
ともすれば、通り一遍の見学が多い中で、自ら足を運び、現状を認識理解しようとする議員の姿勢は私たちの胸を打ち、大変感激いたしました。
ご覧の通り「じゅらく共同作業所」は、重度重複の障害を持ちながら公的施設に入ることのできない子供達を持つ同じ様な親の集まりである「社団法人幸年身体障害児者父母の会連合会」が、独自で管理運営している民間の施設です。年間の運営費は約3,000万円強を要しますが、内1,800万円を京都市より補助金としていただき、後の1,200万円を運営母体の父母の会連合会の助成金、保護者の負担金、バザー収益金、後援会費等で補っております。限界を越えんがばかりの大変な運営であります。送迎用の車両一つをとっても、耐用年数が遙かに過ぎ、走行キロ13万キロで故障が続き、大変な経費がかかります。保護者の負担を少しでも軽減すべく現在の賃貸料(70坪ほどの倉庫25万円/月で借用)を軽くする場所も探しております。入所生は、年々重度重複化し職員の肉体的負担も相当なものですが、増員も財政が許さず、日々、火の車の状態と言っても過言ではありません。保護者をはじめ関係者は公的施設が一日も早くでき、皆が入所できる日を待ち望んでおります。
「何時、自分が、子供が、障害者や障害を持つ子供の親になるか。皆その可能性を抱えている。自分の立場で少しでもお役に立つことができるなら。」
この先生の言葉に、私たちは議員の並々ならぬ御決意と真剣に取り組む心のある姿を拝見できたように思います。
先生が、子供達と同じ目線で見聞し、学ぶという姿で自分を位置づけられ、更に保護者、職員と話し合っていただいたことは、私たちとっても確かな次への躍動を感じることができました。
体験した親しか解らない想像を絶するような苦しみを乗り越えてきた私たちに、議会を通して、また先生個人の活動を通して、行政や社会により一層理解をしてもらう橋渡し役を化って出ていただいたことに心より敬意と感謝の意を表します。
山積みする問題を解決するには、どれも時間を要するものと思いますが、身近にできるものから積極的に取り組んで頂けるように私たちも頑張りますので、末永くお力添えをくださいますようお願い申しあげます。
社団法人京都市身体障害児者父母の会
連合会会長 関 五郎
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社団法人京都市身体障害児者父母の会
連合会会長 関 五郎様
お手紙を頂き有り難うございました。先日、そちらの「じゅらく共同作業所」にお伺い致しまして私自身多くのことを学ばせて頂きました。
私は当初、その会のお名前から、交通事故などで肢体障害を受けられた方々の会というイメージをしておりましたが、実際は、生まれた時から障害を背負ってきた子供たちが殆どで、そのうちの大部分のか方が知的障害と、肢体不自由という重度障害のある方々でした。言葉も話せない、食事も一人では食べることができないという姿を目の当たりにいたしまして、正直かける言葉を失ってしまいました。私も議員として、様々な福祉の施設に視察を致しましたが、これほど重い障害の方は初めてでありました。しかしそんな中でも、父母の会の皆様方が子供達のために我身も忘れ必死で生きておられる様子を見て、父母というものの有難さと偉大さに心を打たれる思いをいたしました。もしこれが逆の立場で、子供が障害のある親の面倒を見るということであったら、果たしてこんなに献身的にできるのだろうかと、しみじみと感じました。といいますのは、老人ホームに親を預け放しで、一度も面会に来ない方が少なからずおられるという話をよく耳にするからです。
共同作業所に対する補助の問題は基本的には国の制度が変わらなければ、どうにもならない部分があります。特に京都市のような政令指定都市は府県並の権限と財源が与えられているため、京都市内の施設に府が助成することには制度上の大きな壁があります。最近では高齢者に対する福祉の充実はずいぶん進んできました。これは、高齢という誰もが辿る道であるため、大きな世論の盛り上がりを背景に国も一挙に進めることができたのです。
しかし、本来国や行政が真っ先に手を差し出さなければならないのは、皆様のような非常に重い障害をお持ちの方に対してではないかと思います。そのためにも、一人でも多くの方に皆様方の実態を知って頂き、大きく世論をうごかすことが必要だと思います。そういう観点から議会や後援会を通じて活動を進めで行きたいと思っております。
一人の声は小さいものですが、多くの声が集まれば必ず、制度も変えてゆけると思っています。皆様と共に一つずつ問題を解決していけるよう私も全力を尽くしたいと思っています。皆様のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。
京都府議会議員 西田 昌司
銭湯における福祉介助入浴実施の試み
柳井湯 村谷 順一
平成7年11月より南区開ヶ町の柳井湯において介助入浴を始めまして、はや2年を迎えます。福祉介助入浴というのは、入浴はしたいが一人では不安がる高齢者や障害者の方を対象として、銭湯において医療、福祉、保険所、病院、看護学校生、地域のボランティアなどの関係者がスタッフとして集まり、入浴のお手伝いをするものです。
利用者のお迎えから始まり、入浴前に体温、血圧、脈拍などのバイタルチェックを行ない、その日の体調が良ければ、衣服の着脱、浴槽の出入り、体を洗うお手伝いを行なっています。そして、入浴後にはお茶を飲んでいただき、徒歩帰宅または車でお送りしています。また、終了後には反省会を開き、次回に備えます。
使用者の反応は非常に良く、大変喜ばれており、それがスタッフのやりがいとなって現在まで事故なく続いている一因だと思います。
「地域を地域で守る」ということを基本として、人々が豊かさを実感できる地域にしたいという願いから、身近な事から取り組みを行なっています。高齢者や障害者に関わる医療、食事、介護、入浴などのうち、浴場を社会資源の一つとして活用し、入浴に関して設備を提供し、スタッフを集めてどれほどのことが出来るのか、行政が実施しているデイサービスの補完事業として位置付け、実験的に行なっております。
この企画には多くの方の協力がなければ続けていくことができません。この紙面をご覧になった方で、少しでも関心をお持ちの方は是非見学からでも参加してみて下さい。心よりお待ち申し上げております。
「国」は何のためにある?
弁護士 森田 雅之
犯罪は犯せば罰せられる。これは、国が被害者に代わって犯罪者を処罰することによって、被害者の報復感情を和らげ、私的な報復を防止して、法秩序を維持するためである。国がこのようにして法秩序を維持するのは、国民の生命、身体、財産を守るためである。
一方、犯罪者が少年である場合には、罰せられないことがある。一口に少年と言っても、生まれたての者から明日20歳となる者まで含む。この中には、未だ事の善悪を判断するまでに精神が発育していない者もいる。刑法はこれを14歳未満の者とした。また、14歳以上の者であっても、少年は精神的な未熟さの故に犯罪に陥ることが多く、他方その未熟さ故に将来の矯正・更正を期待することができるから、成人と同じ刑罰処罰を科すことが適当でないと考えられる場合がある。そこで、少年法は、16歳未満の者には刑事処罰を科さないこととした。16歳以上の者は、刑事処罰を科される場合があるが、それでも同様の理由で成人とは異なる刑が科される。これは、少年の将来を保護することによって、立派な成人となり、国を支えてもらうことを期待したものです。
上の二つは、どちらも国の役割として重要なものであることは間違いない。しかし、どちらがより基本的な役割であるかといえば、前者であることも間違いないことであろう。国民が安全に暮らせる国であってこそ、安定した将来もあると言える。少年法は、それを間接的に支えるものである。もし、少年法の故に、日本が国民の安全を守れない国となろうとしているのなら、少年法自体もその役割を果たせていないと言わざるを得ない。
少年法の見直しに関しては、枝葉末節まで様々な点が取り上げられているが、根本的には国のあり方をどう考えるかという視点を忘れてはならない。そして、すでにお判りのとおり、それは少年法に限った問題ではないのである。
西田昌司議員が全国青年議員連盟会長に就任!!
去る8月21日、大阪市において自由民主党全国青年議員連盟(青議連)の全国大会が開催され、西2田昌司議員が第16代の会長に選任されました。青議連は今から34年前、当時大阪府議会議員だった中山太郎元外相らが中心になって作られた自民党籍を有する50歳までの地方議員の会で、国や党に対して青年議員の立場から常に正論を主張することを旨に活動してきました。
また、本年度の上記大会で西尾幹二電通大教授、藤岡信勝東大教授、高橋史朗明星大教授との歴史教育の問題点等に関する討論会が行われました。マスコミ等で見られる「従軍慰安婦」問題や現代の歴史教科書問題などが議論されました。この模様を収めたビデオも貸し出ししておりますので、ご利用の方は Showyou編集室までご一報ください。
編集後記
『秋色』。最近、母の里へ帰ることがあった。30数年前この畦道でこの小川で、随分遊んだことを思い出した。今、近くにバイパス道ができ、川はコンクリートの用水路になっている。子供達が遊んでいた。ザリガニを採っているらしい。キャッキャッとさわぐ声につい思い出が蘇った。
松本 秀次