ロシアが悪でウクライナが善?
岸田文雄 総理大臣に今後の諸課題について直接提言いたしました
2月、突然ロシアがウクライナに侵略しました。武力による現状変更は許されないとして、すぐさま日本では反ロシアの非難決議が衆参両院で採択されました。更に、ウクライナのゼレンスキー大統領をリモートではありますが、国会で演説させるという前代未聞の措置がなされました。勿論、マスコミも反ロシア・反プーチンの大合唱ですから、国民の多くもロシアを非難し、ウクライナを支援しようという空気に包まれています。
しかし、こうした報道は本当に正しいのか、私は当初から疑問を感じていました。ロシアがウクライナに先制攻撃したことは事実であり、それ自体は非難されるべきでしょう。しかし、問題は何故ロシアがそうした行為をしたのか、そのことに対するロシア側の言い分が全く考慮されず一方的に報道されていることです。先に武力攻撃をしたロシアが一方的に悪で、攻撃を受けたウクライナが被害者であり、それを支援することが善という善悪二元論に基づいていますが、私はこうした報道に強い違和感を感じています。国と国との間に限らず、人間社会においては、どちらかが一方的に善でどちらかが一方的に悪ということは有り得ないと考えるのが、大人の常識ではないでしょうか。
東京裁判史観に洗脳されている
私はこうした報道を見ていて、直感的に真珠湾攻撃から始まる日米開戦のことを思い出しました。このことは、戦後は概ね以下の様に教えられてきたでしょう。日本がハワイの真珠湾に先制攻撃をして大東亜戦争が勃発した。それ以前にも日本は満洲国を建国するなど、中国大陸でも領土を拡大し、侵略を繰り返していた。更に、日独伊三国同盟を締結して全体主義の道を歩み出すことになる。日米開戦によりアメリカを始めとする連合国との間で第二次世界大戦に発展し、最終的に全体主義国家は連合国に敗れ平和が訪れた。日本は、アメリカに原爆を落とされるなど都市の多くは破壊され、多くの国民の命が奪われた。遂に、ポツダム宣言を受け入れ無条件降伏し、アメリカに占領されることになった。占領中、日本は民主化のために憲法を改正し、民主主義国家として再スタートした。
そして、こうしたシナリオの下に行われたのが東京裁判です。日本は東京裁判を受け入れ、戦犯として認定された人物は処刑されました。その結果、サンフランシスコ講和条約を結ぶことができたのです。これにより、日本は占領を解かれ独立を回復することができたのです。
しかし、以上の記述は戦勝国である連合国の立場での歴史観であり、連合国を戦後は国連と訳しています。まともな日本人なら、こうした歴史観は到底受け入れられないはずです。確かに、日本が真珠湾に軍事的に先制攻撃をしたことは事実です。しかし、それ以前にアメリカが日本への石油の輸出を禁止し、更に日本が絶対に受け入れられない「ハルノート」を突きつけるなど、アメリカの方が先に事実上の宣戦布告をしていたことは当時から知られていた事実です。
また、国民党の蒋介石に対して共産党の毛沢東と協力して日本と戦う様に仕向けたのが、アメリカであったことが今や事実として知られています。その証拠に、日本を占領したGHQのマッカーサー元帥は朝鮮戦争の最中にその任を解かれますが、その直後の昭和26年、アメリカ上院での委員会で「あの戦争は日本にとってはおおむね自衛の戦争であった」という旨の証言しているのです。東京裁判を行った側の人間が、東京裁判史観を真っ向から否定しているという事実を私たちは知るべきです。
こうした事実を知れば、現在のウクライナ侵略に対するロシアへの一方的非難に違和感を感じるのは、歴史を知るものならば当然のことではないでしょうか。今日のロシアへの一方的非難は、未だに東京裁判史観から抜け出せない日本の姿を象徴するものなのです。
参議院決算委員会での議論
YouTube「週刊西田」の馬渕元ウクライナ大使との対談は、シリーズで15万回以上再生されています。是非ご覧ください。
前回のShowyou109号で財務事務次官の財政破綻論が事実誤認であることと、それを糺すために財政政策検討本部を設置したことを述べました。世間では相変わらず、国債発行がこれ以上増えれば通貨の信認に影響するという報道ばかりが溢れています。
しかし、コロナ禍により疲弊した経済や社会を支えるためには財政出動する以外ありません。そのため補正予算が異次元の規模で編成され、令和2年度には三度に亘り補正予算が編成されその総額73兆円にもなりました。当初予算との合計は175兆円という予算規模になり、これは通常の予算の2年分に相当する額です。財務省のいうことが正しければ、これだけの規模の予算を執行すれば財政破綻の兆候が見られるはずです。しかし現実は、ウクライナ戦争による影響が多少はあるものの、物価も為替も金利も比較的に安定しています。事実は、財務省の説明とは違っているのです。
私は、4月11日の参議院決算委員会において次の様な質問をしました。
「国債の償還は現実には税金ではなくて、借換債で行われている。したがって次の世代の負担にはなっていない。さらに、日銀が保有している国債に対して支払われる利払費は、日銀の経費を除いて全額が国庫に納付されることを日銀が事実と認めた。このことは、現実には日銀保有の500兆円の国債については、利払いも償還も財政に影響与える事はなく、事実上借金ではないということと思うがどうか。」この質問に対して鈴木財務大臣は「一つ一つの事実を追いかけるとその通りだと思う」という趣旨の発言をされました。財務大臣が、日銀保有の国債は事実上借金でないということを認める画期的な答弁をされたのです。(この様子はYouTube西田昌司チャンネルでご覧いただけます)
この答弁は、国債残高が1000兆円と言われていますが、日銀保有債を除けば事実上500兆円しかなく、しかも国債の償還は借換債で行っているのですから、孫子の代へのツケにもならないと財務大臣が認めたことを意味します。つまり、日本は財政再建をしなければ破綻するという状態ではない。このことが事実と証明されたわけです。まさに、財務省やマスコミなどが報じてきたことが誤りであったのです。
何故、財務省は誤った判断をしたのか
昭和22年に施行された財政法の第4条には「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」と規定されています。これは、公共事業等以外は税金の範囲内でしか予算が組めないという規定です。
しかし、バブル崩壊後税収不足が続き、いわゆる「特例公債法」が作られました。これにより、毎年国会で法律を制定することにより、赤字国債が出せるようになりましたが、赤字国債が恒常化したため有効期間を複数年にする改正がなされ、現在の法律は令和7年度まで赤字国債が発行可能になっています。そして、この年度がPB黒字化の達成年限になっているのです。つまり、法律上は原則として赤字国債は出せないのです。財務省は、この法律に従って財政の健全化を主張してきたわけで、彼らの主張にも一理あるのです。
占領政策は、日本の貧困化と非武装が目的
財政金融委員会での質問はYouTubeチャンネルで30万回以上再生されています
しかし、なぜ昭和22年に財政法が作られたのか、その淵源について考える必要があります。ご承知の通り、昭和27年4月28日まで、日本は敗戦によりGHQの占領下に置かれていました。昭和22年は物価が高騰し、大変なインフレの時代でした。その原因は、国債が戦費調達のために大量発行されたことによりインフレになったと言われていました。その対策として、その前年の昭和21年には財産税課税が実施され、国債は全額償還されたのです。同時に預金封鎖と新円切り替えが実施されました。しかし、インフレの原因は国債の発行ではありません。空襲による生産設備の破壊や敗戦による原材料の禁輸措置による供給力の極端な低下と、戦時中は統制経済により抑えられていた民間需要が急増したことによる、極端な需給ギャップが真の原因だったのです。
この法律の真の目的は別にあったのです。その一つが戦時利得者からの財産没収です。戦時中に政府は国家総動員法により物資を調達します。しかし、その対価の支払いを約束した補償等は当然支払われるべきものですが、GHQはそれを許しませんでした。それを戦時利得者として補償を払うどころか徹底的に財産没収をさせたのです。戦時利得者の利益没収を名目に最大90%の凄まじい税率の財産税が課されました。これにより日本人が貧困化し社会が混乱したことは想像に難くありません。
この法律の最大の被害者は、皇室です。これにより皇室財産のほとんどが召し上げられました。戦前は、皇室運営の財源は事実上国家の予算ではなく、御料林の経営による収益等、皇室財産の運用益によって賄われていたのです。その財源となる財産が殆ど全て取り上げられたのです。その結果、皇族としての生活が維持できなくなり、直宮以外の11の宮家が臣籍降下を余儀なくされたのです。
いずれにしても、終戦直後の占領時代においてはまともな議論をすることもできず、GHQの命ずるままに法律が作られたのです。そしてそれらは、皆、日本の民主化という美名の下で行われたのです。東京裁判もその一例であった事は言うまでもありません。
財政法は、当時の帝国議会では真の目的が何か殆ど議論がないまま制定されましたが、その後、昭和62年には、宮澤喜一大蔵大臣が財政法4条の制定目的について「戦争中に国債が自由に無制限に発行できることが、日本が戦争に入った大きな原因であると反省し、またGHQもそう考えたと思う」という趣旨の答弁しています。つまり、再武装させないために財政に縛りをつけたのが制定目的であったことを認めているのです。
東京裁判史観から脱却せよ
幸いなことに、戦後も昭和の時代までは、経済成長により毎年税収も増え赤字国債を発行する必要がありませんでした。また、東西冷戦が日本にとっては安定した平和をもたらしてくれましたから、防衛費も比較的少額で済みました。そもそも、自ら国を守ることを真剣に考える必要もなかったのです。東京裁判史観に基づくGHQの作った戦後の価値観を守っていけば、日本は平和で安全で豊かな社会を維持することができたのです。
しかし、平成元年(1989年)のベルリンの壁の崩壊により、事実上、東西冷戦は終り、世界の体制は大きく変化したのです。ウクライナ戦争は常任理事国が拒否権を行使すれば、何ら国連が全く機能しない事実を私たちに突きつけました。防衛力の増強は、喫緊の課題ですが、GDPの1%分以内に防衛費を抑制していては不可能です。また、コロナ禍により傷ついた国民経済を立て直すには、多額の財政出動が必要です。それを妨げるのが、財政法に支配されたPB黒字化論なのです。そろそろ、財政法が日本から財政の自由を奪い、弱体化させるために作られたことに気がつかなければなりません。ウクライナ戦争とコロナ禍はそのことを我々日本人に教えてくれているのです。
瓦の独り言
「遊郭の島原とウクライナ」
羅城門の瓦
今年もコロナ過に負けず都大路の桜は満開で、花街からは「みやこをどり」や「京おどり」の案内も目についていました。京都の花街といえば芸舞妓に出会える五花街が有名ですが、瓦としては花魁道中で有名な「島原」も忘れてはいけないと思います。ところがこの「島原」という名前は地図を探しても見当たりません。大門の在るあたりは「西新屋敷」という地名です。では、なぜ「島原」と呼ぶのか調べてみたら、なんと「島原の乱」に由来するそうです。
島原の乱は1637(寛永14)年、九州の島原、天草で発生した農民一揆とキリシタン弾圧に対するものでした。天草四郎率いる3万7千人の一揆軍は原城に立て籠り応戦したが、江戸幕府軍のまえにあえなく惨敗。全員が処刑されるといった悲惨な結果でした。
このニュースは京都にもいち早く伝わったそうです。この時、島原の遊郭は東本願寺北の六条坊門から朱雀野(今の場所)へ移転してきたところでした。その30年ほど前には二条城築城で立ち退き移転を強制されたとか。遊郭の移転となれば大騒動で短期間に何回も・・・。まるで戦乱を思わせる混乱ぶりは「島原の乱」の直後であったので、京都の人々は乱にたとえて「島原」と呼ぶようになったとか。
それほど島原の乱は、京都に住んでいる人たちに衝撃的な出来事として話題になり、遊郭の引越しには援助活動も行われたのではないかと思われます。このような経緯で遊郭の名前が「島原」になったとか。
さて、時は流れた今、「ウクライナ」の惨状がニュースに載らない日はありません。京都市はキーウ(キエフ)とは姉妹都市を結んでいます。ウクライナの惨状が伝えられた数日後にはコンビニのレジ横に「ウクライナ難民支援」の募金箱が置いてありました。ウクライナ産のチョコレートの定価に救援募金を乗せて販売したところ、すぐに売り切れたと聞いています。
江戸初期の京都人が「島原の乱」に思いをはせ、平和を願う気持ちは、400年たった今でも脈々とうけつがれていると思っています。
また、市民あげてのウクライナ支援は勿論のことですが、我々が国会にお送りしている西田昌司参議院議員のウクライナ問題に関する鋭い視点と、時間はかかると思われますが紛争終結に向けた活動を期待してるのは、瓦一人だけではないと思います。